終電で鬼上司の肩を枕にしてしまいました〜会社生活終了と思ったのに、終わったのは平凡で退屈な日常でした〜


 白菜と、冬瓜。
 ここからはじめることにした。

 跳ねるような胸の鼓動は、ずっと陽奈といっしょに走ってきたからでもあるけれど、劇場を出る前からずっと止まることがなかったのだ。
 白い商店街のなかほど、小さな八百屋さん。いまどき専業の八百屋さんって珍しいって足が止まった。だから、ここに決めた。

 店先に立って、ほとんど人通りのない路地を見渡し、真っ青の空に顔を向ける。おもいっきり吸って、おもいっきり吐いた。く、と口を引き結び、わたしと同じように肩で息をしている陽奈をちょいちょいと手招きする。
 露天で並んでいる白菜を指差し、どアップ、と小さく告げる。えええという感じのしかめ面をわたしに向けながら、それでも陽奈はぐいと片手のカメラを近づけ、片膝をついてベストの画角を見つけようとしてくれている。やがて、くっ、と左手でサムズアップ。
 スマホを取り上げる。さっき走りながらかけた通話は、切っていない。

 「いきますよ、副部長」

 ほんの少し間があって、こほんという咳のあと、短く低いひとことが耳に飛び込んできた。

 『思い切りやってこい』 

 胸の奥からなんかがぶわりって湧いてきたけど、押し留めた。そんなところに気持ちを逸らすの、もったいない。いまはぜんぶ、ぜんぶ、カメラの向こうに届けたい。
 いくよ、と陽奈に目配せ。
 中継、開始。

 「……はい! 会場のみなさん、お待たせしました!」

 どアップの野菜。その絵に声をかぶせたあと、カメラをぐいと握って、わたしの顔面にいきなり向けさせた。その距離、十五センチ。ごめんねこんな顔で。でも、これしかない。たぶん。

 「アルテミスホームの佐倉です! あれれえ、お腹すいたようってお顔、たくさん見えますね! ふふ、ごめんなさい。きょう、は、なんと! せっかく神原地所さんがご用意くださったお料理も映像も、ぜえんぶ、わたしが乗っ取ってしまいました!」

 ひと息に言い切って、カメラから離れ、どおんと胸を張る。どや顔でカメラにピース。
 両耳にイヤホンを入れている。右は、会場の音声。左はこちらからの音声を割り当ててる。その右耳に、だけど、なんの音も届かない。拍手も、笑い声も、文句なり罵声すら聞こえない。静まり返っている会場。
 わかってる。わかってた。
 ここ、からだ。

 ◇

 あのあと。
 倒れた弥生さんを副部長にお願いして、わたしと陽奈は走り出した。走りながら、大声で事情を説明した。すっごい懇切丁寧に十二秒くらいで説明したから、きっとわかってもらえたはず。なんか知らないけど、いい絵をつくればいいんすね、って、息絶えだえのなかで返事がかえってきた。泣きそうになったけど、そのエネルギーを地面を蹴る脚に振った。
 陽奈とはぐれた。百メートル十四秒の脚力を忘れてた。すぐに戻った。

 映像のことは副部長にお願いした。会場の中継機器で、こちらが動画サイトにアップしている映像をリアルタイムで繋いでくれるようにって。間に合うかなと思ったけど、すぐに完了の返事が来た。神原地所の映像担当者さんに詰め寄ったんだろうな。すみません。じょうぶつしてください。

 紗縁先輩には食材を買いに出たケイン部長が戻るまで、会場の様子を伝えてもらうように電話でお願いした。ときどき送られてくる通話アプリの映像を見ながら、ぎゅっと唇を噛んだ。

 開場時間を過ぎて、来場者でいっぱいになった会場。立食形式のテーブルの上には水のはいったグラスだけが置いてある。巨大なスクリーンには神原地所とうち、アルテミスホームのロゴだけが映っている。音楽も流れていなければ、司会者が繋ぐでもない。
 神原地所の部長さんという方がなにか挨拶しているのが聴こえたけれど、ぱらぱら、と小さな拍手が聞こえるだけ。細かい音なんて拾えていない。でも、なんだこりゃ、どうなってんだ、っていう会場の空気は痛いくらいに伝わってきていた。

 劇場から出て、坂を登って、息が切れるのもかまわずに走って。なにを目指してるのか、わたしにもわかんなかった。でも、なにを伝えればいいのかだけは、よくわかってた。
 なんとかできるなんて、思わない。
 わたしに出せるものなんて、いま胸のなかでぐるんぐるんしている気持ちだけ。
 だから、ぜんぶを。
 ぜんぶぜんぶを、思いっきり。

 「……っていう歴史もある商店街なんですって! なんだろ、すごくあったかいですよね。閉じてるのに、こもってない。八百屋さん、靴屋さん、薬屋さん。手の届く生活を大事にしながら暮らしていける。おばあちゃんと一緒に、子どもの手を引いて、この街で、この道で。この空を見ながら」

 白の商店街を回りながら、地域の歴史や独特の雰囲気を伝えた。説明じゃない。わたしが、どう思ってるか。拓けたこの街に暮らすひとたちの姿を、わたしがどんな気持ちで描いたか。
 でも、会場は反応しない。ぎゅっと唇を噛んで、それでもカメラに背中を追わせながらどんどん道を進んでゆく。
 坂を登って、何百年も歴史のありそうな古い木立の街路に出て。砂利道を抜けて、神原本家を横目にしながら、頭のなかの地図、プロジェクトの計画図を頼りに走り続けた。企画書に落とした素敵なものを、ぜんぶ大写しにして。

 だけど、動かない。空気。見えてはいないのに、すごく伝わる。重い。
 その重さに泣きそうになりながら、住宅街を走り抜けてちょっと拓けた場所で、カメラに振り返る。全力で笑顔を作りながら、手を振りながら。
 と、カメラを構えていた陽奈がそのままで声を出した。

 「ちょまって美月先輩そっちやばいやばいうぉおおおおお」
 「えっなにぎゃ」

 短い悲鳴は、たぶんわたしのだと思う。
 外の音は左のイヤホンから入ってくるようになってるけど、いったんネットに出てから戻ってくるから、ちょっとだけ遅れる。
 陽奈の声が届く頃には、だから、カメラを向いて笑顔で手を振っていたわたしは畦を踏み外して、少しだけ雪が残ってる田んぼに向かってごろごろと転がりつつあったのである。

 「……ったたたた」
 「先輩っ」
 「あ、だいじょう、ぶ……」

 言いかけたわたしに、カメラを構えながら陽奈は左手を大きく広げてばっとかざしてみせた。広げた指を、ご、よん、さん、と一本ずつ折ってゆく。
 こんちきしょう。絵にしてやがるな、こいつ。
 ぜろ、のところで、わたしは思いっきり両手と両足を広げて、どーんと枯れた田んぼの真ん中に転がってみせた。毒を喰らわば皿まで、田んぼで転ぶなら大の字で、だ。

 「あっはっは、転んじゃましたあ。だって、だって! こおんな住宅地の近くに田んぼあるって、思いませんでしたし! それに、ほおら、見てみてください!」

 転んだときに目に入っていた右のほうを手で示す。陽奈のカメラがそちらに振り向く。田んぼに沿って小さな小川。あっちに落ちてたらちょっとやばかったなあと思いながら、わたしは明るい声を繋ぐ。

 「春には、おたまじゃくし。夏はザリガニ、タニシ。ほんとです。いるんですって。そして……そして、これ、内緒ですよ」

 くいくい、と陽奈を手招き。寄ってくるレンズとマイクに、小声で囁くように。

 「なんかね、昔のお殿さまが隠した砂金が流れてくるって伝説があるんですって。ダメですよ、誰かに教えちゃ。いま会場にいらしてくださってるあなたにだけ教えるんだから。わたしとあなたの、ひ、み、つ」

 どっ、と沸く音が左の耳、会場音声の中継のなかに聴こえた。誰にも見えないように手をぎゅっと握る。よし、火がはいった。ぜったい逃さない。
 と、ちょうどそのとき。会場側のマイクに声が入った。

 『美月。聴こえる? いい感じにアガってるよ、こっち。あと材料届いたから、わたしお料理はいるね。なんとかいうバーのひとも来てくれたよ……ちょ、なんですかケイン部長』
 『佐倉さあん! いいよすっごいいいよ、ちょっと泣いた! もうね、売らなくていい、売れなくていい! 君の大好きを、ぜんぶ置いておいで! あと僕サバの煮付け係になったから……あっ』
 『佐倉、雑音は無視して構わない』

 紗縁先輩からケイン部長、そうして、副部長。副部長はたぶんみんなから離れたんだろう。すこし間があってから、囁くような声。

 『壊してくれ。神原の……俺の、小さな世界。君にしかできない』

 声では、返さない。返せない。中継中だし。
 だから、胸元までせりあがったものをくっと抑えて、わたしは小さなウィンクをカメラに投げた。

 愛してるぜ。
 みんな、みんな。