終電で鬼上司の肩を枕にしてしまいました〜会社生活終了と思ったのに、終わったのは平凡で退屈な日常でした〜


 ひゅ、と息を吸い込み、その拍子に身体が揺れた。
 そばの箱に触れてしまい、がたんと音が鳴る。口を塞ぎ、身を縮める。

 向こうにいた二人が同時にこちらを見た。ちっ、というような音を出して、年嵩のほう、圭太郎はポケットに乱暴に手を突っ込んで搬入口のほうへ歩いていった。わたしには気が付かなかったらしい。部下らしいひとも慌てたように彼の背を追っていった。

 誰もいなくなってからも、わたしはしばらく動けなかった。身体が震える。足に力が入らない。しゃがみ込みそうになったが、壁に背中をあずけてなんとか止めた。
 どう、し、よう……。
 圭太郎というひとが何をしようとしているのかわからない。でも、誰に向けた、どんな悪意なのかはよくわかった。神原グループ会長、千穂子さん。そうしてその孫娘の、弥生さん。ふたりを貶めるために、このプロジェクト、この発表会を壊そうとしている。
 
 震え続ける太腿を、同じように震えるこぶしでばんばんと叩いた。動け、歩け、って命じた。なかなか言うことを聞かなかったけれど、ようやく元の舞台裏に戻ることができた。神原地所の社員さんたちと、この劇場のスタッフさんたちが忙しく立ち働いている。
 でも。誰に、なんて声をかけるの。
 誰かが、なにかしようとしてます、って?
 手を上げ、呼び止めかけて、引き込めて。わたしは走り出した。
 弥生さん。弥生さんに伝えないと。

 あちこちを走り回って、ようやく劇場の正面玄関、ホールのところで彼女を見つけた。でも、近寄れない。恰幅の良い整った身なりの男性たちに囲まれ、頭を下げたり笑って見せたり、たぶん、関連企業かお役所の偉い方たちとおはなしをしてるんだと思う。割り込めない。
 ただ、彼女はこちらに気がついた。ちょっと笑顔を浮かべかけて、わたしの顔色に気がついたんだろう。表情を引き締めて、それでもしばらく周りの方のお相手をしてから、すみませんと頭を下げてわたしのほうにやってきた。

 「……どうかされましたか」
 「……あ、の、ごめんなさい。聞き間違いかもしれない。でも、でも……」
 「言ってください。どうしました。なにがあったんですか」
 「……この会を、プロジェクトを、止めるって。千穂子さんと……その、弥生さんを……引き摺り下ろすって、話してるのを、聞いてしまって」

 弥生さんの表情にさっと緊張が走る。なにか言おうとして止め、横を向き、じっと考えている。もう一度こちらを向いて、ちょっと口元を持ち上げてみせた。大丈夫、と言っているように思えた。そのままジャケットの内側から小さなスマホを取り出して、どこかへかけはじめた。

 「……神原です。ごめんなさい本番直前、ばたばたしてるところに。ちょっと、会場への映像送信の段取り、もういちど確認してもらいたくて。そう、あのメインのプレゼンテーションムービー。んん、別に。なにもないよ。ただ、最後の確認。悪いけど、お願いします。繋いだまま待ってるから」

 そう言い、いったんスマホを下ろした。胸に手を当てて震えを抑え込んでいるわたしにもういちど笑いかけようとした、そのとき。
 わたしにも聞こえた。スマホから、大きな声。耳に当てる弥生さん。

 「……はい。どうしたの。え、ううん、別のサーバに移動なんてしてない。ほら、きのう一緒に確認した、本番送信用のメディアサーバ。よく見てみて。映像ファイル、あるでしょ。無くなってるなんてこと、あるはずない」

 弥生さんの手も、小さく震えてきているのが見てとれた。

 「……予備。バックアップのファイルがあるはず。クラウドに。見てみて。なければ、ベータリリース版だってあるから。ちょっと修正すれば使える……え。バックアップも、ベータも、ない……素材も? 関連ファイルが……ぜんぶ、消えて、いる……?」

 最後に小さく、すぐ連絡する、といってスマホを切った弥生さん。視線をあげ、まっすぐわたしに目を向けている。でも、わたしを見ているわけではない。
 なにがあったか、なんて聞く必要はなかった。そして、かける言葉も見つからない。
 と、そのとき。

 「……あ、次長!」

 向こうからスマホを手にした若いスーツの男性が走ってきた。ゆっくりと、なにも言葉を発さないままで、弥生さんはそちらに顔を振り向けた。目を見開いている。

 「料理が……手配したはずの料理が、誤発注扱いで破棄されてるそうです! ケータリング業者から損害補填の請求の連絡があって……! なにかの間違いだ、すぐに届けてほしいって言ったんですけど、もうぜんぶ捨ててしまったって……その、どうしたら……っ!」
 「神原次長! 今日の司会をお願いしてたアナウンサーの方、まだ来られてなくて、さっきお電話したんですが、キャンセルになったと聞いたって。どうしましょう」

 声を被せたのは、わたしたちの後ろから走ってきた別の女性社員。
 そのどちらにも、弥生さんは声を返せない。雰囲気を察したのだろう。周囲のざわめきが止まっている。続々と到着しはじめていたお客さまたちも首を傾げて彼女の方を見ている。
 しばらく動かなかった弥生さんだったけど、ぶるっと頭を振ってから、スマホを取り上げた。すごい勢いでなにかを打ち込みながら最初の男性のほうへ身体を向けた。

 「いまメール送った先に、片っ端から声をかけて。神原郷の馴染みのレストランとカフェ。それから市内で持ち帰りができるお店を調べて、連絡。できるって言ってくれたところにはぜんぶお願いして。重なってもいい。見積もいらない。条件も問わない。急いで!」
 「は、はいっ!」
 「それからあなた、会社に連絡していままで司会をお願いした事務所さん、リスト化してもらって。何人かで手分けして電話して。事情を話して、至急で来てもらえる方、いないかって」
 「わかりました!」

 二人を見送り、じっと一点をみつめるようにしていた弥生さん。わたしが背にいることを忘れていたのだろう。ふらり、と後ろに動いて、とんとわたしの肩にぶつかった。びくんと揺れて跳ねるように身をよじり、振り返った。

 「あっ、ご、ごめんなさい……痛くなかった、ですか」
 「いえ。それより、なにかわたし、お手伝いできることないですか」
 「……だらしないところ、お見せしちゃいましたね。ふふ、まだまだですね、わたしも。脇が甘い。そういう世界で生きてるってこと、いつでも崩れる足元だってこと、わかってたはずなのに……気合い、入れ直さなきゃ」

 目を少し細めてそう言い、ええと、と言いいながらジャケットの内側からメモを取り出す。肩が震えている。息を吸い込み、手元に目を落としたその瞬間。

 「……弥生さん!」

 ふらり、と大きく彼女の身体が揺らいだのだ。背中に手を当て、腰で支えるようにしてなんとか倒れることは防いだ。でも、膝を折るようにその場に崩れてしまう。薄く開いた瞼が痙攣している。が、すぐに意識を戻したようで、わたしの腕のなかで身を起こそうとする。

 「……あ、れ……わたし」
 「しゃべらないで。あの、貧血だと思います。身体、冷たい」
 「あっ、ごめんなさい、なにやってるんだろうわたし。だい、じょぶ、です……ええと、開会、ちょっと遅らせるって、役員に報告……それから、映像、なにか用意して……」

 またそこで、身体の力が抜ける。頭を打たないように左手を入れようとした、そのとき。

 「弥生」

 大きな手のひらが彼女の後頭部を支えたのだ。
 弥生さんを挟んで、反対側。膝を立てているのは、副部長だった。その背には紗縁先輩と陽奈、そして心配そうに覗き込んでいるケイン部長。みんな、ちょうどいま到着したのだろう。
 
 「……佐倉。なにがあった。会場の様子もおかしい」

 目を瞑ってしまった弥生さんの顔を見下ろしながら、彼女の頭を胸に支えながら、副部長は短くて強い声を出した。いつもの、とても冷たくて、すごくあったかな声。その響きが胸に染み込んで、目の奥が熱くなった。小さな雫が浮かぶのを感じる。
 でも。
 でも、違う。そうじゃない。
 わたしが、やるんだ。わたしの番、なんだ。たぶん、いま。
 
 「……副部長」
 「なんだ」
 「あとで移動しながら電話で話します。事情。いろいろちょっと、込み入ってます。それと、お願いがあります」
 「……ああ」
 「みんなをお借りします」

 ちらっとわたしの方に上目の視線をあげて、副部長はなにも言わずに頷いた。また、胸の奥が熱くなる。振り切って、わたしは立ち上がった。声を張る。

 「陽奈ちゃん、機材もってきてる? 撮影の」
 「え、あ、はい。イベントの様子、撮影しようと思って……」

 弥生さんの様子をみておろおろしていた陽奈は、ぽんと跳ね上がるようにして返事をした。

 「中継もできる機種だよね。よし、それ持ってわたしに着いてきて。走るよ」
 「は、走るって、どこ、を……」
 「知らない。わかんない。どっかそのへん。あとで考える。あと、ケイン部長」
 「ふあ?」
 「このあいだ、近くの商店街、回ってもらいましたよね。そしたらスーパー、覚えてますよね。ありったけの食材と使えそうな調理器具、買い込んできてください。お肉でもお魚でも、なんでもいいですから」

 目をぱちくりとして、お財布を取り出して中を確かめるケイン部長。

 「……あんまり、持ってないけど……」
 「わたしもないです! もう! カードとかで! あとで弁償しますから!」
 「お、おう……」
 「それと、紗縁先輩」
 「はい」

 弥生さんの首元に手を当てていた紗縁さんも、わたしの声に背を伸ばした。

 「ごはん、お願いします。いい感じのやつ」
 「は」
 「ケイン部長と一緒に、ちゃちゃっと。さっき、給湯室、見かけたんで。コンロもふたつありましたから、大丈夫。いけます。先輩のいつもの、ウルトラ時短なのにめっちゃ美味しくて見た目ばっちりの超手抜き料理」
 「……いちおう確認するけど、喧嘩売ってるってことで大丈夫?」
 「いまそれ販売してません。とにかく、なんかあったかいお料理。お店からもいろいろ来るみたいだけど、もっとなんか、ほっこりの生活感足したいし」
 「ごめんね生活感たっぷりで」

 ぷうと口を膨らませながらも、なにか感じ取ったらしい。紗縁先輩はもう立ち上がって、近くのスタッフのひとに話しかけてる。許可をとってくれようとしてるんだろう。また、じわんと込み上げてくる。
 機材をごそごそキャリーケースから引っ張り出してる陽奈のそばに寄りながら、わたしは副部長に声だけを向けた。

 「副部長は、大戸島のバーに連絡してもらえませんか。ありったけのお酒と飲み物、持ってきてくださいって。なんならこっち来て、カクテルとか作ってほしいです」
 「……なに?」
 「ぜんぶわたしが、佐倉が買い取りますから、って。一生かけて払いますからって。そう、言ってください。わたしが決めたんです」
 「……説明は、してもらうぞ」

 ん、と頷いて、わたしはにかっと笑った。陽奈の背を押して走り出しながら、あ、と呟いて振り返る。

 「それと……弥生さんのそばに、ついていてあげてください。お願いします」