終電で鬼上司の肩を枕にしてしまいました〜会社生活終了と思ったのに、終わったのは平凡で退屈な日常でした〜


 「……弥生、さん」

 声をかけるのを、ずっと躊躇っていたのだ。
 たくさんのひとに囲まれて、手際よくいろんな指示をしているその背中が、この薄暗い舞台裏でもきらきらと輝いて見えていたから。
 横を向いたときにわずかに覗いたその横顔に、その透明に、怯えたから。

 「あっ、佐倉さん」

 振り向いた表情に載っていたのは、おおきな笑顔。手に持っていたペンをすっと胸元に挿して、わたしのほうへぱたぱたと走ってきた。そんなつもりじゃないのに、ほんのわずか、後ろに足を引いてしまう。
 正面に立った彼女は、うっすらと汗をかいている。きっと、朝からずっと走り回っているんだろう。会場の手配から、客席の料理まで、ほとんどぜんぶ彼女が手配したに違いない。

 「早かったですね! まだうちの担当者も揃ってませんよ。でも、嬉しい。いらしてくださって、ありがとうございます。素敵なお披露目にしましょうね」
 「あ、ごめんなさい。さすがに二時間前は早すぎでしたよね……わたしいつもぎりぎりになっちゃうから、思いっきり早めに。お邪魔でしたら、クルマで待ってますから」
 「いえいえ、とんでもない」

 胸に手を当てて小首をかしげるように笑う彼女に、わたしは引き攣ったように口元を持ち上げることしかできないでいる。
 なんて、ちっちゃいんだろう。なんてくすんでいるんだろう。わたし。

 あの夜、マスターに揺り起こされて、わたしは『Bar NOCTURNE』の奥のソファで目を覚ましたのだ。もちろん、そこがどこで自分が誰かなんて高等なことを判別する能力なんて残っていない。でも、やがてじんわりと、居眠りする直前にマスターに聴かされたこと、そして、そして……副部長の背に立って見つめた一部始終が浮かび上がってきた。
 浮かび上がって、わたしを取り込み、沈めたのだ。

 夢、かもしれない。夢だったんだろう。
 マスターに聴かされたこと、副部長と弥生さんのいきさつ。わたしが勝手に、脳内で脚色したんだろう。そんな会話は、していなかったんだろう。ふたりの仕草も、言葉も、そうして……弥生さんの想いも、わたしが想像しているだけ、だったんだろう。

 でも。
 でも、ほんとうのことは、そこにあった。
 本物はそこにあって、偽物は、その眩しさに目を覆うことしかできなかった。

 マスターにお礼を言って、あははって笑いながらチーズグラタンを平らげて、ごっごっと音を立てて冷たい水を飲み干して、わたしは零度ちかい街に出て、凍えそうになりながら、なんども道を間違えながら、ようやく駅に辿り着いたのだ。
 都心に向かう最終列車。わたしの車両にいたのは、わたしだけ。
 真っ暗な窓に顔が映っていたから、笑いかけてみた。顔が歪むってこういうことなんだなって、わたしはひとつ、知識を得た。

 神原地所から封書が届いたのは、その夜から二週間後。完成した提案書を郵送して数日後の午後だった。
 営業部のケイン部長が持ってきてくれた。提案書、通ったよ、おめでとう、って言いながら、ぽんぽんとわたしの背中を叩いたのだ。
 紗縁《さより》先輩が涙ぐんで口を押さえる。陽奈《ひな》がなにか叫びながら廊下に走り出た。わあ、という声が企画部ぜんたいから上がる。遠い窓際でゆっくりと立ち上がった副部長。視線を合わせたわたしの表情に、なにかを感じたのだろう。口を動かしたが、声は、届かない。
 わたしはみんなに笑いかけた。筋肉で持ち上げた、口角。

 プロジェクトの現場である神原郷、その最寄りの公共劇場を借りてお披露目が行われることになった。国内大手の不動産開発企業と外資のハウスメーカーが手を組むということでマスコミの注目も高いらしい。関連企業も招いて、大掛かりな発表になるとのことだった。副部長とわたしはかわるがわるに役員なり他の部署の偉いひとたちに呼ばれ、そのたびに面倒な用事が増えた。
 そのあいだ、副部長とはほとんど会話をしていない。できなかった。
 わたしが、避けた。
 今日も、わたしだけが早めに会社を出た。副部長も先輩たちも来ることになってるけど、適当な理由をつけてひとりで出たのだ。

 「他の皆さんも、もう到着されてるんですか?」

 考えていることを言い当てられたようで、わたしは背をぴくんと揺らせた。
 他の皆さん。わたしには、あのひと、って聞こえたのだ。

 「あ……わたしだけ少し早く出たので。もうすぐ着くと思います。あの、なにかうちでお手伝いすることないですか。ほとんど神原地所さんのほうでご準備いただいちゃって……」
 「いいえ、こちらのわがままで開催させていただくんですから。こんな大掛かりになっちゃって、むしろごめんなさい。ちょっとわたしも気合い入れすぎですね。だけど、ふふ、なんだか嬉しくて」

 そういい、踵を浮かせるように、跳ねるような仕草をみせる弥生さん。そのまま空を舞うように見えた。ちがうか。わたしが、潜ってるんだ。地面に。

 「そうだ。今日みなさんにお見せする予定のプレゼン映像、すごくいいものになりましたよ。アルテミスホームさんにご提供いただいた素材も素晴らしかったです。手がけられた住宅で、街で、みんなが笑顔になっている様子。感動しちゃいました」
 「……ありがとう、ございます。あれ、わたしが撮ったんです。最近の現場で」
 「えっ、ほんとですか。わああ、すごい」

 目を丸くして口を覆い、少し目を潤ませさえする彼女の顔から目を逸らした。だけど少し体温の下がったわたしの手を両手でとって、彼女はぶんぶんと振ったのだ。

 「皆さんに……たくさんのひとに見ていただくのが楽しみです。アルテミスホームさんの、佐倉さんの、本気を」

 握られた手が痛い。強く握ってない。なのに、痛い。
 本気。ほんとうに本気なのは、あなたです。

 と、弥生さんの背の向こう、舞台への入り口あたりで声が上がった。次長、と呼びかけている。弥生さんを探しているようだ。振り返り、手をあげる弥生さん。相手は走り寄ってきた。

 「こちらにいらっしゃったんですね。すみません、ちょっと音響の確認をお願いしたくて。それと受付の花、すこし白が多すぎるんじゃないかって役員から声があって」
 「ああ、はい。いま行きます。佐倉さん。また後で」

 大きな笑顔をつくって手を振り、踵を返す。手振りを交えて話をしながら歩いてゆく弥生さんの背にぺこりと頭をさげて、わたしは、しばらくそのままの姿勢で固まっていた。
 彼女が自分のちからで作ってきた世界。自分で決めたプロジェクト。自分で見つけて、自分の意思を、自分の声で伝えつづけてきたひと。
 わたしは、その端っこに乗っかっているだけ。
 なにやってるんだろう。こんなところで。

 副部長たちが到着するまであと三十分くらい、かな。
 ふう、と息を吐いて、ぽんぽんと腰を叩いた。仕事は、仕事。ちゃんとしよう。
 弥生さんはああ言ったけれど、なにかお手伝いすることがあるかもしれない。掃除でも荷物はこびでも、誰か向こうの社員さんに声をかけてやらせてもらおう。
 そう思って、舞台へ続く通路の反対側、裏手の搬入口に向かう扉に向かった。特に鍵はかかっていない。よいしょ、と重い取っ手を引きあける。

 「……じゃないんだよ!」

 ふいに聞こえた強い声。思わず身をすくめ、積んであった大きな箱の陰に身をひそめる。
 通路の先、搬入口の手前のあたりで誰かが話している。二人とも男性だ。背の低いほうが年嵩で、背を丸めるような姿勢のもうひとりを叱責しているように見えた。

 「照明を落とす? 料理の一部を差し替える? ったく、馬鹿が。そんなことで止められると思うのか? いいか、おまえも俺の下でやっていきたいなら腹を決めろ。生ぬるい考えは捨てろって言ってるんだ」

 声が高くなり、その男は神経質そうに口元を歪ませながら周囲を伺う。こちらに向いたその顔に、わたしは覚えがあった。
 あの日。副部長と参加したパーティ、神原会。そこで千穂子さんに、もう来るな、と言われた男性だ。たしか……圭太郎、と呼ばれていた。
 彼はもう一度、相手の若い男性を睨み上げて、目を細めながらゆっくりと声を出した。
 
 「止めるんだよ。このプロジェクトを。引きずり下ろすんだ。俺に恥をかかせたあの耄碌ばあさんと、生意気な孫娘とをな」