終電で鬼上司の肩を枕にしてしまいました〜会社生活終了と思ったのに、終わったのは平凡で退屈な日常でした〜


 「こんばん、は……」
 「おや、いらっしゃい」

 遠慮気味に開けたけれど、零度に近い外気がお店のなかに流れ込むのを感じたから、わたしは慌てて扉の内側に身体を滑り込ませた。背中で閉める。からん、という軽やかなドアベル。
 チーズを焼いたような香ばしい匂い。心地よい湿度と静かなジャズの音色とが凍りかけたわたしを溶かす。思わず深呼吸。

 「んんん……はあ。いい匂い……」

 忙しくてお昼を抜いてしまったわたしに、この香りは暴力なのである。その暴力にやられて立ったまま半分意識を失っているわたしを見て、マスターがカウンターの向こうで吹き出した。

 「さっきたまたまチーズグラタンのお客さんが続いてね。佐倉さんも食べる?」
 「いただきます! 食べるなと言われても食べます!」
 「あはは、はいはい。いつもの奥のソファ席、空いてるよ。どうぞ」

 わたしはぺこりと頭を下げ、コートを脱ぎながら店の奥に向かった。
 大戸島の駅から歩いて十分ほど、雑然としているけれど暖かな生活感のある路地の奥の地下一階。副部長にはじめて連れてきてもらった日から今夜で四回目になる『Bar NOCTURNE』。

 神原地所への提案づくりが佳境に至って、ここしばらくは毎日のように神原郷やモデルハウスと会社を往復してる。会社のクルマが使えるときはそうしているけれど、電車とバスを使うことも多い。誰かと同行することもあるけど、ほとんどはひとりだ。
 打ち合わせなり調査を一日中がんばって、疲れ果ててバスを降りるのはこの駅の前。そのまま自宅に向かう電車に乗り込む気にはどうしてもなれない。営業時間さえ合えば、自然と足がこのお店に向かうのだ。

 「改めて、いらっしゃい。飲み物、何にしますか」

 マスターが席まで来て、熱いおしぼりを差し出しながら聞いてくれた。でも、飲む、という言葉を聞いた瞬間に思い出したくないなにかがぶわりと迫り上がってきて、わたしは思わず口を押さえた。

 「っ、ぷ……さ、最近、ちょっと飲み過ぎで……あの、シナモンティってできますか」
 「おやおや。はい、かしこまりました」

 白髪の混じる口髭のなかでふふと笑って、マスターはカウンターのほうへ戻っていった。改めて座り心地のよいソファに身を沈める。前に来たときは副部長が座っていた席。
 んん、と背伸びをして、おおきなあくびを放つ。つ、か、れ、たあ。

 雪のモデルハウスから、今日でちょうど一週間。
 あの夜の翌朝、わたしたちは地鳴りのようなエンジン音で目を冷ました。互いに重なり合うようにトイレまで最短距離となる居間のソファに背を預けていたのだ。ソファに座っていたのではない。床だ。座ろうとしたけど失敗して流れ落ちたのだ。ふたりとも。
 エンジン音は除雪車だった。綺麗に排雪されてアスファルトが覗いた道路を、わたしたちは窓のところで並んで確認した。目を見合わせ、ふふ、と微笑みあう。ロマンチックな朝だと思うであろう。わたしたちの、その時の顔面状況を知らないから言えることである。
 
 呪われた人形のような動作で顔を洗い、身支度をして、クルマに乗り込む。二人とも無言だった。二日酔いの激しい頭痛でそれどころではなかったし、他の理由もあったのだ。互いに。
 えづきそうになりながら、ゆっくりとクルマを走らせる副部長をときどき横目に窺った。何度かに一度は、目が合った。そのたびに窓の外に勢いよく顔を振り向け、その刺激でまたおえっとなる。そういう繰り返しで都心に戻り、おつかれさまです、という簡単な挨拶で別れた。
 その日は、休んだ。副部長も休んだらしい。
 陽奈《ひな》からなんかいろいろメッセが来てたが、無視した。

 あれから、副部長とはほとんど会話していない。避けてるわけではない。仕事のことは普通にしてるし、彼もちゃんと受けてくれる。でも、でも。
 すごくすごく、やりづらい。
 だけど、誤魔化さない。その理由からは、もう目を逸らさない。
 
 お酒でほとんど飛んでしまった記憶、何を言って何を聴いたのか、おぼろげな部分もたくさんある。でも、しっかりと残ってる部分もあって、それはわたしの真ん中に、もう消せない色として染み込んでしまったのだ。
 ひとりで寂しそうに俯く、湊少年。
 わたしは、彼からパンを半分もらうことに決めたのだ。俯く彼の隣で、一緒にパンを食べるって、ずうっとそうするって、決めたのだ。そういう自分を笑わないって、無理だよって言わないって、決めたのだ。
 だから、今日は……。

 「お待たせしました、シナモンティです」

 そこまで思いを巡らせたときに、ちょうどマスターがやってきた。片膝をついて、テーブルにカップを置いてくれる。

 「あ、ありがとうございます」
 「グラタンは焼けるまで十五分くらいかかるけど、かまわないかな」
 「はい、待ちます。何十分でも」
 「あはは、なんだか緊張するよ。じゃあ、ごゆっくり」

 そういってトレイを小脇に立ち上がろうとするのを、わたしは両手を差し上げて止めた。

 「あ、あの、ちょっと……おはなし、いいです、か」
 「……え? 話……って、僕に?」
 「はい。あの、すぐ終わりますから……あっ、でも、お忙しかったら閉店までお待ちします。お待ちしててもいいですか……グラタンとお茶、たくさんおかわりしますから」

 マスターは白い眉をおおきく持ち上げて、それでもこくりと頷いてくれた。

 「他にお客さんもおられないから、今でも構わないけれど……グラタン、少し遅くなっちゃいますよ」
 「はい、それすごく辛いですけど、大丈夫です。我慢します。いやいやそうじゃなくて、ごめんなさい。ご迷惑ですよね」
 「いいえ」

 優しげな目元を細めながら、マスターは隣のソファに腰を落とした。手でカップを示す。ひとくち飲みなさい、って言ってくれてる。手に取って、口に含む。はあ……すっごい、美味しい。もうひとくち、身体に染み渡らせる。
 よし、言える。

 「……話って、もしかして。工藤くんのこと?」

 ちょっと目を見開いて、こくり、と頷く。だよね。やっぱり、ばればれだよね。
 マスターはそんなわたしに、なんだか嬉しそうな微笑を向けてくれた。

 「それを僕に相談してくれるんだ。ふふ、いいなあ、こういうの。そういう役回りをやってみたかったんですよ。王子さまの秘密を知ってる、彼を見守ってきた謎めいた老人……さて、冒険の途中でたまたまそんな老人に巡り合ったプリンセスは、意中の彼のなにを知りたいのかな」
 「……あの、もちろん、言っちゃだめなこと、あると思うんです。だから、マスターが構わないと思ったことだけで、いいですから」

 小さく、柔らかく頷いたマスター。促すような視線。手をきゅっと握り込み、わたしはなんどか躊躇ってから、口を開いた。

 「……ふくぶ……工藤さん、というより、弥生さんのこと、です。きっと……マスターはご存じですよね。神原弥生さん」

 じっとわたしのことを見つめて、無言で頷く。なんの根拠もなかったけれど、副部長は弥生さんをこの店に連れてきている。わたしはそう、確信してたのだ。

 「弥生さんはずっと、工藤さんを見ていた。工藤さんだけ、追いかけた。そう、ご本人から伺いました。工藤さんも子ども時代から彼女を知ってる。すごく、すごく素敵な女性です。選ばない理由なんて、ないと思うんです」
 「……そう」
 「このお店にも一緒に来て、そうして、服を買ってあげるような間柄で……なのにどうして、工藤さんは応えないんでしょうか。なにかあったんでしょうか。いえ、彼の子どもの頃にあった事故のことは伺ってます。そうじゃなくて……弥生さんとの間に、なにか。ご存じのこと、ありませんか」

 また少し時間を置いて、マスターは少し顔を横に向けた。困ったな、というように頭の後ろに手をもってゆく。

 「……ちょっと、びっくりしたよ」
 「……え」
 「うん……そうだな。あなたは、知っているべきひと、なんだろう。あの二人がそこまで話したんだから。工藤くんがあなたをここに連れてきたんだから。テーブルに突っ伏して眠り込んじゃったあなたを見ている表情が、あんなに優しかったんだから」

 ふう、と息を吐いて、マスターはソファに座り直した。両手のひらを膝の上で組んで、とん、とんと、しばらく揺らしている。
 やがて、落としていた視線をあげて、ゆっくりと言葉を作りはじめた。

 「……あなたがさっき言った言葉、ほとんどそのまま、弥生さんに言われたことがある。五年前、工藤くんが英国から戻ってすぐの頃に。なぜですか、なにが足りないんでしょうか、わたしに、って。だけど……違うんだ」

 少し苦しそうに目を細め、声を落とした。

 「……自分が壊してしまったと思ってるんだ。工藤くんは。弥生さんの、人生を」