終電で鬼上司の肩を枕にしてしまいました〜会社生活終了と思ったのに、終わったのは平凡で退屈な日常でした〜


 さら、さら、という音がずっと聴こえている。
 窓を打ち、流れるようにおちてゆく雪。
 副部長の浅い呼吸音のほかにはそれしか届かない。

 「……ガキ、だったん、だ。俺は……なにひとつ、理解していなかった」

 しばらく間を置いて、副部長はちいさく言葉を漏らした。
 薄く目を閉じている。眠りかけているのか、とおい時間に心を飛ばしているのか。

 「……父は、神原の出だ。なのにあえて、一族の外にいた。かと思えば、叔父たちの求めに応じて海外での催しに参加したり、誰かの代理で会合に立ったり。俺には……っ、ふ。それ、が……なにかを失敗した人間の、情けないふるまいにしか、見えなか……った」
 「……」
 「父は、優しかった。よく笑った。すこし抜けていて、誰にも好かれて、まわりにはいつでもたくさんのひとがいた。それを、俺は、俺、は……弱さの証と、とったんだ。弱いがゆえに、一族の名にすがって生きているんだ、ってな」

 いまだにネクタイを握っていたのだ。ゆっくりと放し、下がってゆくわたしの手は、いつのまにか副部長の膝の上、彼の手の甲に被せられていた。

 「反発した。さげすん、だ……思春期を通して、だ。兄がいたが、それを含めた家族の輪から、俺だけが外れているって、感じてた。だけど、それでいいと思っていた。俺は、勝者になるから。俺は、負けないから。俺は……自分の手で、自分の居場所を作るから」

 呼吸が早くなる。苦しむように頭を動かす。彼の髪がわたしの首筋を擦る。

 「その日、関連企業の海外でのレセプションに参加するといって、でかけていった。俺を置いて。俺、を……いや、違う。俺のチケットもあったんだ。だが、断った。そうだ。俺が、断ったんだ。誇らしいような気持ちで、家族がいない家から学校に行き、弁当がないから購買のパンを食った。そうして夕方ころに、知らせが届いた」

 彼の頬が、肩にある。お酒があげたのだろう。体温が、高い。暑いくらいに。とくん、とくんと、首筋の鼓動が伝わってくる。その鼓動といっしょに、彼の長い時間が流れ込んでくる。

 「……誰が俺を引き取るか、で揉めたらしい。千穂子さんがそれを一喝したそうだ。本家の離れに住まわせてもらい、俺は、神原の名のもとに護られた。神原の金で育てられ、神原の恩恵で、生きた。笑えるだろう。あれだけ反発して、あれだけ嫌った、神原の名。それがなければ、そこに縋らなかったら、俺は……こうして、生きてない。ふ、ふふ。クソ、だな。俺は」

 けほ、と息を吐いて、副部長は首のちからを抜いた。肩にかかる重さが増える。疲れたのだろう。しばらく黙っていて、それから膝の上の手を引こうとした。わたしの手がかぶせられていることに気がついたらしい。もぞもぞと、動く。
 その手は、でも、それ以上動けなかった。
 わたしが握ったからだ。
 つよく。きつ、く。

 「……た、です、か」
 「……なに」
 「おいし、かった、です……か」

 質問の意味が汲み取れなかったのだろう。首をわずかに起こして、わたしのほうを見ようとする。が、力がはいらない。その間にも、わたしの言葉は止まらない。

 「その日の、パン。購買で買ったパン。どんな、パン、でしたか。コッペパンみたいな、パン……ですか。菓子パン、それとも、サンドイッチ。クロワッサン、バゲット、塩パン……」
 「……さく……ら。なにを、いって……」
 「何色、でしたか。しょっぱかったですか。なにが、はいって、ましたか。どんな口あたりでしたか。やわらかかったですか。あったかかったですか。たべやすかったですか。どんなかたち、だったん、です、か」
 「……おい……」

 もがくように顔を起こし、しばらくの努力の末に、ようやく視線をわたしに振り向けることに成功した。右隣のわたしの顔は、こぶし三つぶんほどの距離にある。眠たげに瞬かせた目でわたしを捉えて、副部長は、ふっ、というような音をたてた。息を呑んだのだろう。
 その距離で、顔面が滝になっている女をみつければ、だいたいの男性はそうなると思う。

 「その日に、お昼に、買って食べた、ひとりで、食べた、パン。ひとりっきりで、そうして、何十年もたって、わたしに、パンを食べたよっていうような、そんなパン。色は。重さは。温度は。手触りは。いくらで買ったんですか。いくつ、食べたんですか」
 「……さ、く……」
 「教えてください。副部長の、止まった時間の端っこを知っている、そのパン。わたしが、もらいます。だめっていっても、もらいます。隣で、ううん、廊下の反対側でも、隅っこでもいい。わたしが、もうひとつ、食べます。副部長の近くで。副部長が、感じられる場所で。ひとりじゃない。わたしが、食べてますから。すっごいおかわりして、大人買いして、みんなごめんだけど、全財産つかって、買い占めて。おんなじパン、ぜんぶ、それで、それで……」

 なにをいっているのか、自分でもまったくわからない。意味もとれないし、そもそも後半、ほんとうは言葉にすらなっていない。わたしがそういったつもりになっているだけだ。
 もにょもにょいう音を間近で聞かされている副部長は、目を見開いている。身体も、小さな椅子の上で、器用にのけぞらせて。ごめん、なさい。マジできついですよね。

 とうとう声が出せなくなって、下を向いてしまった。
 肩が震える。理由はわからない。ただ、震える。手を伸ばせない、時間の向こうに手が届かない自分がもどかしい。悔しい。ちいさな柔らかな魂が、ずうっとひとりで耐えてきた。我慢して、耐えて、そうして、氷を帯びるまで。纏う空気が、零下となるまで。
 神さま。ごめんなさい。だけど、ばか。
 わたしに会わせるのが、遅すぎです。

 「……くそく、して、くださ……」
 「……なに?」
 「約束、して、ください。もう、ひとりでパン、食べないって。購買のパン。絶対、かならず、ひとりで食べないって」
 「……パン、は……いや、もう、購買では買えない。それに、別に、あの事故にはパンはなんの因果ももたらさな……」
 
 顎に持ち上げられようとしてた彼の手を、ぐいととる。引き寄せ、自分の首元にあてる。体重移動が急だったから、どちらの身体も互いに向かって倒れ込むようになった。
 彼の鼻がわたしの首筋にあたる。わたしの口元は彼の耳に、触れる。どちらも戸惑って身動きをしたが、どちらも失敗した。もっと密着する形になって、静止する。
 その耳元に、わたしはアルコール分をたくさん含んだ音を、ゆっくりと流し込んだ。

 「……ちがいます。間違い。そういうときは、うんって、素直にいうんです。なんとでも、しますから。わたしが。わかりましたか」
 「……は……いや……」
 「いいの。ほら、はい、って。ね。いい子だから。湊、くん」
 「……は、い」
 「ん」

 わたしはぐちゃぐちゃの顔面のまんまでにんまりと口元を上げ、小さく頷いた。よかった。これで安心。なんだかぜんぜん、わからないけど。とにかく安心。ふふ。
 だけどこれって千穂子さんに言われた受け売りっぽいよなあ、となんとなく心に浮かんだところで、事態が急激に変化した。

 「……っ、ぷ」

 がたり、と腰を動かす。込み上げるものを口元ごと押さえ、わたしは見開いた目を副部長に向けた。相手も驚いたような顔をつくったが、その仕草の途中で表情の意味が変わったのがわたしにもわかった。
 伝染、するんだよね。これ。

 その夜は、とっても素敵な時間になったのだ。
 互いに支え合うように、廊下とトイレと洗面の付近で朝まで過ごすという貴重な経験を通じて。