終電で鬼上司の肩を枕にしてしまいました〜会社生活終了と思ったのに、終わったのは平凡で退屈な日常でした〜


 呆然としていると、テーブルに置いていたスマホがぶるぶると震えた。駆け寄って手に取る。
 紗縁《さより》先輩からだった。メッセアプリの着信、映像通話のリクエストだ。緑色のボタンを押して通話モードにして顔の前にかざす。

 「先輩、お疲れさまです」
 『ごめん佐倉さん! 今日、無理っぽい』
 「え」

 画面のなかで手を合わせてる紗縁先輩。先輩のスマホを誰かが手に持って向けているらしい。たぶん、陽奈かな。

 『仕事もやばいけど、なんかそっち、すごい雪降ってるんだって? ニュースでやってたよ』
 「あ、はい。住宅地にあがってくる道、通行止めになっちゃったみたいで。いまこんな感じです」

 そう言いながら窓に歩み寄り、カーテンをめくって常夜灯に照らされる庭を映した。雪の勢いはぜんぜん衰えていない。さっきよりも何センチか増えてるような気がする。

 『うわあ、なんじゃこりゃ……! すっごいね。さすが山の上』
 「あはは、完全に閉じ込められちゃいました……あ! そういえば、ごはん! 先輩たち買ってきてくれるって言ってましたよね!」
 『……無理だわ。行けない。行けても、行かない。雪、無理』
 「え、待ってくださいそれじゃわたしたちの晩ごはんはどうなるんですか」

 先輩は黙って一歩さがり、手をおなかの前で重ねて無言で綺麗なお辞儀を決めてみせた。なんか葬送的なものを感じる。いや。いやいや待って。そういうのいいから、餌、餌を。

 『美月せんぱあい。うう……わたしだけでも行きたあい。先輩のところへ、駆けつけてあげたいです……でもわたし、運転できないし……あああ、そっち行きたあい』

 画面がくるっと周り、陽奈の顔がアップになった。自分に向けたのだろう。唇を噛んで泣きべそをつくっている。心配してくれるんだ、陽奈。いい子だなあ。あとでたくさん頭ぽんぽんしてやろう。

 「うん、でも、仕方ないよ……すごい雪だし。無理したら、危ないし」
 『……あの、ケイン部長にご挨拶だけしてもいいですか。そこにいらっしゃるんですよね』

 わたしは、あ、となって離れたところで通話している副部長に振り向いた。相手はたぶん、ケイン部長なのだ。でも副部長は、こちらに向かって首を振り、しかめ面をしてみせた。道路が封鎖されて戻れないって言ってる……? 違うな。たぶん、すごい早い段階でいろいろ諦めてすでに都心に向かってるに違いない。副部長の表情はそう言っている。

 「あ、ごめん。ケイン部長、いないんだ。お昼すぎにクルマで出て、戻ってこれなくなっちゃったみたい。もしかしたらもう、都心に向かってるかも」
 『え、なあんだ、そうなんですか。なら行かなくていいや』

 陽奈。あとでたくさん頭、ぐりぐりしてあげよう。
 
 『……佐倉さん、あのさ、ってことは、もしかして……副部長と、二人きり……?』

 また画面が先輩に向く。口を寄せて、すごく小さな声で囁く。わたしも副部長からスマホを隠すようにして、こくりと頷く。画面の向こうでひゃああみたいな声が上がる。

 『そりゃあ……やばいね。ええと、キッチンあるよね。包丁とか置いてあるかな。あと消火器のちいさいやつ。あれぶわあってかければいいよ、いざとなったら』
 『トイレこもればいいんですよ。鍵かけて。それで朝まで叫び続けるんです』
 『それだ。まあ、なんにしても、なんとか耐えて。朝日は必ず昇る。明けない夜はない』

 二人でなんか好きなことを言っている。わたしはぐいと画面を顔に寄せた。

 「だい、じょうぶ、です! こっちはなんとかしますから。お二人こそ、お仕事トラブル、ちゃんとなんとかしてくださいね」
 『へええい』

 それだけ言って通話は終わった。
 振り向くと、副部長のほうもスマホを下ろしたところだった。

 「須賀と志葉倉か。なんと言っていた」
 「まだ仕事が終わらなくて来られない、とのことです。あと、雪は嫌だと」
 「俺も同感だ。まあ、仮に通行止めが解除されても登ってこられまいな……ああ、それから営業部長はすでに都内だった。役場が終わった時点で雪が強くなったからすぐ見切りをつけて高速に乗っていたそうだ」
 「……ひど」

 捨てられた感がある。すごく。
 ぶつぶつ言いながらとりあえずデスクの上で散乱していた書類を片付けていると、副部長がキッチンに歩いていった。冷蔵庫を開け、戸棚をぱたぱたと確かめている。たぶん、晩ごはんがないことに気がついたのだろう。

 「冷蔵庫は空だ。電源も切られていた。まあ、そうだろうな。戸棚にも大したものはなかった。インスタントコーヒーの瓶と、これだ。モデルハウスを見に来た来客用だろう」

 そういって、テーブルにクッキーの缶をことんと置く。けっこう良いところのやつ。嬉しいような、わびしいような……。

 「どう、しましょう。なんとかしてクルマ、出すとか……」
 「無理だ。スタッドレスタイヤではない。まして車高が低い車種だ。途中で埋まる」
 「じゃあ、わたし、ひとっ走りして……」
 「エゾシカか。遭難するぞ。麓まで何キロあると思っている。しかたあるまい、ここにあるものだけでなんとかするほかないだろう」

 そういい、テーブルの上に視線を落とす。
 クッキーの缶を囲むように林立する、大量のビールとワイン、ウィスキー、焼酎。
 ふたりで顔を見合わせ、はあ、と同じタイミングでため息をついた。

 ◇

 「だいたい、ですねぇ。副部長が、っく、全面的に、悪いん、ですよお……ひ、っく」

 グラスをテーブルに置こうとして、転がっている空のビール瓶にぶつかった。こんちきしょう。みんな邪魔ばっかしてくれちゃって。瓶をふっとばしてグラスをだんと叩きつけ、わたしは荒く鼻息を吐いた。

 「ほんとは苗字が神原って、なんですかそれ。しらないっすよそんなの。いや、いいんですよふつうの神原さんなら。よりにもよって、あの神原さんって、スペシャル大金持ちの神原ファミリーの一員って、もうなんか、わたしのこと、バカにしてません? ん?」
 「……佐倉。のみ、すぎだ……」

 テーブルに肘を置き、手の甲に顎を載せていた副部長は、わたしのセリフの間に寝落ちしかけたらしい。けしからん。まったく、けしからん。わたしの水割り、まだ八杯しか飲んでなかろう。途中から氷と水をいれるの忘れたけど、ウイスキーなみなみ注いだけど、そんなの些事だ。許しがたし。成敗してくれる。

 わたしは椅子を鳴らして立ち上がり、副部長の首元に手をのばした。ネクタイをぎゅっとつかむ。引き寄せ、わたしの顔も近づける。苦しかったのだろう、う、という音とともに生暖かい息が顔にかけられた。思わず膝がかくりとなる。にゃろう。敵もさるものじゃ。
 掴んだまま、ふらふらとテーブルを回って副部長が座っている椅子に腰を押し込んだ。ちいさな椅子にならぶ二人。いいんだ、もうひとりはどうせ寝ちゃうし。
 振り向けた顔のすぐまえに、とろんとまぶたを落としかけた、ずるい副部長の顔。

 「あの、まっしろブティックだって、なんすか弥生さんのおさがりですか。わたし、おさがりいただくひとですか。わたし、きらきらのカカシですか。ね、どうして、弥生さんに会わせたんですか。どうして、あんなとこに連れてったんですか。ねえ、どうして……」

 ひといきに喋ったからか、息が苦しい。ネクタイを離して自分の胸に手を置く。苦しい。どうしてこんなに苦しいんだろう。なんだか涙が浮かんできた。

 「……どう、して。わたしだったんですか。神原の、さとに、行くの。どうして、弥生さんを、選ばないんですか。わたし、わたし……どうすれば、なにをすれば、正解なんですか。なにが、副部長の、せいか……い、なん、で……すか」

 息が続かないのと、ふらふらするのと。自分が話している言葉のはんぶんもわからない。選ぶ……正解。なんだろ。なにを話してるのかな、わたし。
 と、首筋に寄せられた口元。
 副部長が顔を傾け、わたしの肩に頬を載せるようにしている。

 「……俺に、正解なんて、求めるな……俺は、おれ、には……なにもない。正しい、ことなんて、わからない」
 「……」
 「俺には、愛する、愛されるということが……家族ということが、わからない」

 動けない。動けないまま、揺れる瞳を隣に向ける。
 ふう、と息を吐いて、副部長は落ちそうなまぶたを持ち上げた。少しだけわたしを見て、天井に視線を向ける。

 「……航空機の事故だ。家族が、父と母が、きょうだいが、昨日まで笑っていた家族が、消えた。中学生のときだ。俺の中のなにかが、その日、止まった」