終電で鬼上司の肩を枕にしてしまいました〜会社生活終了と思ったのに、終わったのは平凡で退屈な日常でした〜


 「うわ、さむっ!」

 リビングの西側、オープンキッチンのシンク横にある片開きの窓をそろりと開け、急いで閉めながら裏返った声を出したのはケイン部長だ。

 「雪が降りそうだよ……僕さ、イングランドでもけっこう暖かい場所で育ったからさ。雪なんて日本に来て初めて見たんだよね。ほら、おととしの冬、けっこう積もったじゃない。僕、会社に泊まったもん。歩きたくなくて」
 「そうか。では、君の春の辞令は英国本社勤務となるように俺からも上申しておこう。苦手な日本での勤務、ご苦労だった。もう来ないほうがいい」

 リビングのテーブルに座って書類をめくりながら、背中側のケイン部長に冷たい声を投げる工藤副部長。わずかに開いただけの窓からも容赦なく十二月の寒気が流れ込んできて副部長の背を撫でたのだろう。ぶる、とわずかに肩を震わせて、彼は眉を寄せてみせた。
 外気と副部長と、両方の氷点下をあてられたケイン部長は情けなさそうに眉尻を下げた。

 「なんだよう。雪、苦手って言っただけじゃないか。日本も日本人も大好きだよ。あなたも、佐倉さんも」

 ぐしゃ、と副部長の手元で書類が歪んだのを、正面に座ってキーボードをたたき続けているわたしは目撃した。
 目の前には、ノートパソコン。その向こうにはビールとワイン、ウィスキー、その他アルコールの類がたくさん並んでおり、副部長の姿はお酒の間に見えている。

 いわゆる神原郷と、例の終点の大戸島、そのちょうど中間くらいにある古い地域に拓かれた新興住宅地。そこに新築されたモデルハウスのリビングに、いま、副部長とケイン部長、そしてわたしが集合しているのだ。
 あの日、副部長はわたしたちがなにも言えないでいるうちにスマホを操作して空き日程を見つけ出し、ケイン部長にぽんぽんと投げつけ、無理やりに頷かせた。わたしの顔をちらと見て肩をすくめ、それでもケイン部長は笑ってみせたのだ。苦笑半分、だったけど。

 営業部のメンバー何人かと、企画部からは副部長とわたし、それから紗縁《さより》先輩と陽奈《ひな》が参加することになった。日中にわたしができるかぎりの周辺調査をして、夕方からみんなで現地の空気を感じながら案をとりまとめよう、ということになったのだ。
 よし、やろう、と、わたしはけっこう緊張しながら準備していたんだけど、先輩も陽奈も少しテンションが違った。なんか近場の温泉とか検索してたりとか。ベッドが少ないって聞いて、寝袋まで買ったらしい。室内キャンプだとかなんとか言ってた。

 ところが今日になって、彼女たちの担当案件でトラブルが起きてしまった。それでそっちの対応してから来ることになっちゃったのだ。到着は夕方から夜になる。
 そして営業部でも急な事情ができたらしくて誰も来られないってなったんだけど、直前でケイン部長だけが現れた。こんな面白そうなの、ぜったい参加しないわけにはいかない、って、肩で息をしながらよろよろとクルマに向かったのだ。

 陽奈たちからお酒だけは先に買っておいてください、食べ物はあとからわたしたち買っていきますから、絶対いきますから、絶対! って、なんども念を押された。いまわたしの目の前、テーブルに並んでいるのは彼女たちのオーダーどおりに買ってきたアルコールたちなのだ。
 みんな、何かのイベントと勘違いしてる。ほんとに。

 「じゃあ、僕はちょっと麓の役場と得意先、廻ってくるから。陽が落ちるまでには戻るから。戻るからね、必ず」
 「あっ、いってらっしゃい。あの、商店街とおったら、この地域の方の買い回り先、聞き込みしていただいていいですか。あとバス停にひとが並んでるか、タクシーが流しで走っているかと、そうだそれと、スーパーの鮮魚と野菜の鮮度も」

 わたしが立ち上がって早口に叫ぶと、リビングのドアに手をかけたケイン部長はくちをへの字にしてみせた。

 「はいはい、手伝うって言ったからね、やりますよ。いい子で待っててね」
 「はやく行け」

 言葉を被せたのは副部長。ふっと息を漏らしてケイン部長は出て行った。玄関を開けるとき、ひゃああと悲鳴のような声をあげていた。クルマが遠ざかってゆく音。
 
 さて、とわたしはキーを叩き始めた。きょうお昼までに副部長といっしょに廻った周辺の暮らし方のイメージが新鮮なうちに、昨日までに調査した神原郷の資料との突合せをしたい。そこから得たイメージを、すぐに企画書に落とし込みたい。
 提案の期限まであと三週間。そろそろスパートをかける時期だ。

 しんとした室内。壁の時計がこちこちと時間を刻む音だけが聴こえる。
 副部長はずっと書類に目を落としたまま、なにも言わない。邪魔しないように気遣ってくれているんだろう。よし、と気合を入れ直し、集中して作業した。
 そうして、三十分くらいたったころ、かな。
 すう、という音に目をあげた。
 副部長の手から書類が落ちている。首が、わずかに傾いている。

 「……ふく、ぶちょ……?」

 おおいともういちど小さく声をかけ、それから無音で叫んだ。
 ね、て、る?
 副部長、居眠り、してる! あの、氷の工藤、が!
 ふるふると頭を振り、写真写真とスマホに手を伸ばしかけ、思いとどまった。わたしはいろいろヤバいやつだが、もうちょっとだけ人間でいたいと思う。
 だけど。でも。閲覧は、いいよね。閲覧だけ。そっと。

 こくり、と船をこぎ出した副部長をじっと眺める。隙なく整えた前髪のほんの一筋が額に落ちている。緩みかけた襟元から覗く喉の陰影。薄くあけられた唇から漏れる寝息の温度が届いたように感じられた。
 やがて副部長の顔が完全に下を向いた。わたしは音がしないようにパソコンの蓋を閉じ、ゆっくりとお酒の瓶をかき分けて隙間をつくり、パソコンのうえに両手を組んで顎を載せた。顔を傾けて彼を見上げる。
 なにをしているかって。そりゃ、ねえ。
 かぶりつき。下から、じっくりと。

 思えば、ずっとわたしたちの作業に付き合ってくれていた。
 手伝ってはくれない。必要な指示も判断もしてくれるけど、手をださない。だけど、ずうっと近くにいてくれた。終電まででも、徹夜でも、わたしたちの最後が帰るまでそこにいてくれた。
 寝不足だって、わたしたちといっしょなのだ。

 ありがとう、ございます。
 閉じたまぶたをじいっと見つめながら、わたしは小さく言葉を口に載せた。
 こち、こち、という時計の音。
 いつの間にか窓をぱたぱたと叩く音も聞こえるようになっている。雨、かなあ。いいなあ、なんか。この空間。すごく、好き。
 すごく、すごく。
 好き。

 ◇

 「佐倉」

 あ、耳元の声。こうやって副部長に起こされる暮らし、いい。最高。この夢はよい夢です。できれば朝はごはんとお味噌汁がいいなあ。副部長、お料理、たぶん得意そうだし。ふふ。次はどんな夢、みようかなあ。ふふ。

 「佐倉。おい、起きろ」
 「……おみそ、しる……ふ、ふ……」
 「なに? 味噌汁? いまはない。それよりいいから目を覚ませ。まずいことになった」

 肩を揺すられ、わたしは頭を起こす。
 そうして見つける、パソコンの蓋に乗ったよだれ跡。ぐわ。でも慣れてます。即座に袖で擦って証拠隠滅し、ついでに口元をぬぐった。それからできるだけ愛らしく顔をあげる。大丈夫。誤魔化せてないこと込みで誤魔化す笑顔である。

 「えへ、寝ちゃいました……すみません」
 「俺も寝落ちしてしまったらしい。不覚だ。まさか、こんなことになるとは……」
 「へ?」

 副部長は顎を窓のほうへ向けてみせた。わたしも顔を振り向ける。うわ、もう真っ暗。何時間寝てたんだろ、わたし。
 ただ、真っ暗な窓の外をなにかが飛んでいる。雨? んん、霞がばあっと降ってくるみたいな、白いもの……懐かしい、北海道のばあちゃんちでよく見た、夜の……。

 「雪!?」

 立ち上がり、窓に駆け寄る。副部長も歩いてきた。
 窓の外には日中まで、まだなにも植えられていない庭があったはず。
 でもいまそこに見えているのは、いちめんの白。
 たぶん……二十センチくらい、積もってる。

 後ろの副部長に振り返る。彼もわたしをちらと見て、手元のスマホを示してきた。
 画面には通行止めの文字。
 この開発中の住宅地に至る、たった一本の道が雪で閉鎖されたという通知だった。