終電で鬼上司の肩を枕にしてしまいました〜会社生活終了と思ったのに、終わったのは平凡で退屈な日常でした〜


 「……君には冗談のセンスがある」

 工藤副部長はこちらを見下ろし、右の眉をすこし引き攣らせながら声を出した。わたしにだけ届くように小さく絞ったそれには、わずかに苛立ちのようなものも感じられた。

 「認めよう。何度も楽しませてもらった。が、いまはそれを発揮する場面じゃない。いいか、一軒家のリフォームじゃないんだぞ。ひとつの街の再生だ。検討すべき項目の精査だけでどれだけの分量になると思っている。二ヶ月間でできる作業じゃない。そもそも……」
 「副部長」

 わたしは彼をまっすぐに見返した。震えそうになる下の唇をきゅっと噛み、それからふうと息を吸って、ひと息に吐いた。小さく小さく、早口で言葉を繋ぐ。

 「神原さんがおっしゃる街って、あの街、ですよね。閉ざされた白い世界。静かで不思議で、でもどこか物悲しくて。素敵な場所でした。わたしは、やってみたいです」
 「佐倉。無理だと言っている。怪我をするのは君なん……」
 「やりたい、んです!」

 あなたの、故郷だから。
 好きではない、不気味だ、とあなたが言った、その場所だから。
 そういう言葉を置けない代わりに、語尾がぽんと弾けた。響いた声にいちばん驚いたのはわたしだ。口を覆って周りを見回し、小さく頭を下げる。
 副部長は眉を上げて戸惑っている。それでもなにか言おうとして口を開きかけたが、声がかぶせられた。

 「いいじゃない。最高だと思うよ、やりたい、って気持ちがいちばん大事だよ」

 左横のほうの営業部の席、その真ん中でケイン部長が拳で口を押さえながら声を出したのだ。肩が揺れている。笑っているのだ。

 「それに、そういう佐倉さんが欲しくて企画部に呼んだんでしょ? 好きなことに、やりたいことに真っ直ぐで、走り出したら止まらない佐倉さんを、さ」
 「……なにを」
 「いいよ、佐倉さん。やろうよ。大丈夫、企画部が動かないなら営業部が全面的にバックアップするから。遠慮なく、フルパワーで行っちゃって。後ろは僕たちが守るから」

 そう言いながら、ケイン部長は綺麗なウィンクを決めて見せた。そういうことがほんとに似合うひとだ。なんて返していいかわからなくて、胸に手をあててぺこりと頭を下げた。
 副部長がまだなにか言おうとするのを、ケイン部長は手を上げて遮った。

 「ねえ、工藤さん。あなたこそ、なにか個人的な理由があってこの案件、逃げてるように思えるけど?」
 
 副部長は虚を突かれたように息を呑み、向こうに座ってにこにこと経緯を見守っている弥生さんの方に顔を振り向け、口をへの字にしてどすんと椅子に腰を落とした。そのまま黙って天井を睨んでいる。

 「……では、ご承諾いただけたということで。素敵なご提案、楽しみにしております」

 弥生さんは機嫌よさげな表情でそう言い、立ち上がった。左右の男性も慌てて倣う。彼女は会場を見回して綺麗にお辞儀をして、上げた顔をまっすぐ、わたしに向けた。声を出さず、口だけを動かす。
 よろしく、ね。
 わたしも真っ直ぐにその瞳を見つめ返して、頷いた。きっと表情はきりっと引き締まったものになっているだろう。だから、副部長も、会場の誰も気づいていない。
 わたしの頭のなかがいま、厳冬期の道東地方のようにホワイトアウトしているということを。

 ◇

 「……い。おおい……」

 遠くから声が聞こえる。邪魔しないで。
 ふわふわの雲のうえ、あったかなお陽さま。わたしは空。わたしは光。

 「……み、づき、せんぱ……だめだこれ。使い物にならん。そんなら……えい」

 息苦しくなる。呼吸、できない。ふがふがと荒い息を吐いて、わたしはぽんと背を起こした。
 起こしたその顔のまんなか、わたしの鼻を器用につまんだまま、後輩の陽奈《ひな》が盛大なため息をつく。

 「なにひとりだけ楽園に逃げてるんすか」
 「……にゅ」
 「こうなったの誰のせいだと? っていうか先輩が三徹四徹するのは勝手ですけど、わたしたちまで巻き込んじゃって。つぎ寝落ちしたら口と鼻、粘着テープで塞ぎますからね」
 「ふ、ぇえい……」

 突き放すように放された鼻を撫でながら見上げた壁の時計は、もう夜の十一時。今日も終電確定だ。昨日もおとといもそんな感じ。だけど、それはわたしだけじゃない。
 陽奈ちゃんのいうとおりなのだ。ぜんぶわたしのせい。まだほわほわしている顔を、ぱん、と手のひらで叩く。

 「ごめん、ひなちゃん。正直逃げてた。どうしたの?」
 「課題の地域、神原郷ってとこの明治以降の史料とりまとめ、終わりましたよ。住環境に関わるところだけなら片手落ちだろうと思って、近隣の産業史と、あとは行政の都市計画との関係でも照らし合わせしてます」

 そういって分厚いファイルをどんと三冊、わたしの前に積み上げる。手にとってぱらぱら眺めてみるけど、見るまでもなく完璧であることはわたしにはわかってる。陽奈は、そういう子だ。
 胸に抱いて、ぺこりと頭を下げる。

 「すごいよ、ありがとう……ごめんね付き合ってもらって。ほんと、感謝してる」
 「そういうのいいっす。言葉じゃなくてブツで返してくださいブツで」
 「あはは。はいはい、わかってます」

 ブツ。開店と同時に売り切れると話題のスィーツ店のメインテーゼ、フルセット。手にいれるまで、雨だろうが雪だろうが早朝からの列ならびに協力することがわたしと陽奈が交わした約束だった。ちなみに、毎週一回、一ヶ月。
 一ヶ月。そういえばちょうど、あの日から今日で一ヶ月だなあ。
 フロアの奥の窓際に、今夜も前髪のひとすじすら乱さずに、副部長は座っている。
 
 副部長の反対を押し切って弥生さんの挑戦を受けた、あの日。
 神原地所のひとたちが退席したあと、わたしは役員と同僚たちから集中砲火を浴びた。どうするんだ、勝算はあるのか、失敗したら君に責任がとれるのか。隣の副部長は黙って腕組みをして目を瞑っていた。
 真っ白になった脳内だけど、それでも、わたしはどこかほっとしてた。
 言えたこと。んん、言えてない。二人称じゃない。けど、だけど、一度も前に出られなかったわたしが、言えた。関わりたいって。あなたに、副部長……工藤さんに、その故郷に、沈んだような色合いの少年時代に、そうして、弥生さんを含めたまわりのひとに。
 あなたに、関わりたいって。

 しばらく黙って俯いていたけど、反論するつもりもなかったのだ。それでもなにか言わなきゃって顔をあげたとき、副部長がすっと立ち上がった。
 企画部の案件です。わたしが管理します。わたしが、護ります。
 そういい、周囲の空気ごと冷却するような氷の視線をもって見回した。
 護る。会社を、ね。わかってます。

 そうして企画部フロアに戻り、そこからはもう、嵐だった。
 副部長の発する零下の空気を全身にあびながら、わたしは部員たち全員をまわった。その場で思いつく限りの説明をして、どうしてもやりたいんだってひとりひとり、訴えた。いちばん反対したのは陽奈、そして先輩の紗縁《さより》さん。
 それでも、ひとりで動き始めたわたしを最初に手伝ってくれたのも、その二人だった。

 要件の検討、類似案件の精査、資料収集、整理と検討、立案、レビューとブラッシュアップ。やることは、息絶えるほどある。
 そしてわたしは、予想通り、まいばん息絶えていた。
 この一ヶ月。

 「こっちもできたよ。自治体と地元企業、住民へのアンケート素案」

 左隣から声をかけられるのと同時に、ひとくちチョコがデスクに置かれた。紗縁さんはわたしの飼育方法をようく知っている。このひとつぶで、終電まで頑張れる。

 「うう、紗縁さん……ありがとうございます……んぐ」
 「だけどさ、いまだに手伝わないよね、副部長。なんかいい加減、腹たってきた」

 そういってくいっと、遠くの副部長のほうに顎をしゃくってみせる。
 そうなのだ。あれから、副部長はこの件にほとんど手を出さない。最低限の確認だけをして、あとはわたしたちに任せきり。いや、もちろん不満なんてない。わたしがやるって言い出したことだから。
 でも、気になる。
 わたしに触れられるのが、嫌だったのかなあ。副部長の故郷のこと、過去の……こと。

 「ま、いいや。とにかくこれで下準備はあらかた済んだね。だけど、ちょっと実感をもって検討したいよね、こういうの。その地域の実際の家にお邪魔したりしてさ」

 紗縁さんがアイスカフェラテのストローをくわえながら声を出す。

 「そうなんですよね。でも、まさか住んでる方の家にお邪魔するわけにもいかないし、空き家を探して借りるっていうのも時間がかかりそうだし……」
 「っていう皆さんに、僕からすこうし早いクリスマスプレゼント!」

 後ろから聞こえた声にぶふぁっと紗縁さんが咳き込み、陽奈が目をハートにして振り返る。
 営業部、ケイン部長はいつものように猫科っぽい動作で音も立てずにわたしたちの後ろに立っていたのだ。ちなみに陽奈は、ケイン部長狙い。なかなかのチャレンジャーである。

 「あの地域の近く、ちょうど似たような条件のところにうちの別荘計画があってさ。モデルハウス、ちょうど今週、落成するんだよね。まだインフラ揃ってないけど、何日か泊まりこむくらいならできるんじゃないかな」
 「……え、それって……」
 「所管は営業部だから、僕がうんといえば、いくらでも貸し出せるよ」

 わたしと陽奈、紗縁先輩が目をみあわせ、わあっという表情をつくる。
 と、ケイン部長がけほんと咳払いをした。

 「だけど、現場はまあまあの山なんだよ。まだ開発中だからね、女性たちだけで行かせるわけにはいかない」
 「……あ、そう、ですね……」
 「ということで、僕がいく」
 「へ」
 「ちょうどね、地元の役所との折衝があるんだ。完成した現場も確認しないといけなかったから都合がいい。来週あたまとかでどう? 佐倉さん」
 「ああ、構わない」

 みんな、びくんと背を揺らす。低く冷たく、滲みとおるような声。もちろんわたしのものじゃない。
 ケイン部長にみんな振り向いていたから、背から聞こえている。そうして声の主は、もちろん全員、そちらを見なくても誰のものであるか判別できている。

 「俺もちょうどそちらに所用があってな。新規のモデルハウスも確認しておきたい。営業部長の許可があるなら気兼ねもないな。何曜日の何時に出発する」

 工藤副部長が、ごり、とボトル入りのガムを噛み砕く音がわたしたちの背に振ってきた。