終電で鬼上司の肩を枕にしてしまいました〜会社生活終了と思ったのに、終わったのは平凡で退屈な日常でした〜


 ひばり、かなあ。
 からすじゃないとおもう。白いし。雀よりは大きくて、でもなんか透き通ってた。きらきら輝いてて、何羽かが群れになってこの都心のビルの二十三階の窓のそとでくるくると踊りながら空の彼方に飛んでったのだ。

 「佐倉」

 ビル街の向こうには山が見える。見ていると、どんどん近くなる。懐かしい山。友達と走り回って、ごろごろ転がって、どんぐり拾って。楽しかったなあ、子供のころ。

 「……おい」

 中標津のばあちゃんの肉じゃが、たべたいなあ。牛たちも元気かなあ……あ、何年かまえに農家、やめちゃったんだっけ。でも、いきたいなあ、北海道。ああ。
 にげ、たい、なあ……。

 「おい、さく……」
 「どうりゃ」
 「っひ」

 背中の真ん中、肩甲骨のあいだの下のあたり。パイプ椅子の背の間からペンかなにかでぐりっと押されたわたしが吐いた言葉は最後のもので、その前は後輩の陽奈、そして副部長の台詞。
 道東の抜けるような青空の下から修羅場の会議室に呼び戻されたわたしは、まず右隣の工藤副部長に小さく頭を下げ、それから背中側に座っていた陽奈にちょっと振り向いて睨みつけた。ひそひそ声で抗議する。

 「なにすんのさあ」
 「さあじゃないっすよ先輩。前みて前。ほら、こっち見てる」

 言われて顔を戻して、正面に見たものはもういちどわたしの意識を飛ばしかけた。
 彼女は穏やかな微笑を浮かべながらこちらに視線を向けていた。
 低めの位置にまとめられた髪、うなじに存在感を主張する後れ毛。身体にぴったりと適ったダークネイビーのスーツ。三日前の宴席のときには少しふんわり感じていた印象は、涼やかで知的なものに置き換わっていた。

 神原弥生さん。
 神原地所、アライアンス事業部、次長。

 千穂子さんからの電話、試合開始と宣言されて切れたその通話のすぐあとだ。
 わたしはその時点で魂が消失していたから、おい、と声をかける副部長を放置したまま、ふらふらと企画部のフロアへ戻ろうとしていた。が、ちょうどそのとき、半透明のガラス扉のむこうから声がわあっと声があがったのだ。同時に廊下の奥の営業部からもざわめきが聞こえる。
 扉が開いて、企画部の同僚が飛び出してきた。引き攣っている。ぱくぱくと水面の魚のように口を動かしていたが、やっと声を絞り出した。
 神原地所のひとたち、うちに名指しで提案がある、って、いま、来られて……。

 副部長は、表情こそ変えなかったが、ちらっとわたしに視線を落としてから早足で自席に戻っていった。わたしは幽霊モードのまま漂い、陽奈と紗縁先輩に心配そうな顔で迎えられながらぽすんと椅子に座ったが、すぐに立たせられた。
 全員、会議室に集合。
 わたしにはなにが起こりつつあるか、なんとなくわかっている。
 わかっているから、廊下に出てから会議室と反対の方向へゆらゆら歩き出そうとしたが、紗縁先輩に背中を掴まれてそのまま連行された。

 そうして、会議室。
 うちの役員たちと企画部、そして営業部のおもだった面々がずらりと並んだその正面、中央に弥生さんは座っている。左右の男性、神原地所の社員さんなんだろうけど、どちらも緊張に強張っている。でも、弥生さんだけは、まるで自宅のテーブルに座ってお茶を淹れてますというような表情でこちらを見ているのだ。
 こちら、というより、わたし。
 そして工藤副部長を。

 「……以上が当社の求める条件です。今回は公開コンペですが、わたしたちは御社が最適なパートナーであるという判断を得ました。ですから、今度は皆さまが、わたしたちがパートナーとしてふさわしいかを見極めていただきたいのです。その上で、よいご提案をいただきたい。そう考えております。ここまで、なにかご質問はあるでしょうか」

 わたしの目から視線をはずして、周囲をゆっくりと見回して弥生さんは穏やかに言葉を置いた。すぐにわたしの斜め前にいた課長が手をあげた。

 「なぜ、神原地所さんほどの大手さんが、当社のような中堅外資にお声がけを? もし当社の商品が気に入られたのなら、コンペを飛ばして、じかに契約くださっても……」
 「いいえ」

 短く、でもはっきりとした声。間を置かずに返されて、課長は気圧されたように首をすくめる。その顔を見つめながら、弥生さんは少し表情を柔らかくした。

 「見せていただきたいのです。わたしたちの思いを、わたしたちの期待を越える……それを壊してくれるような、力を」
 「……」
 「求められたものを提出する。与えられた問題を解決する。そういう能力に興味はありません。わたしたちの手にすでにあるからです。皆さまにお声がけした理由はそこにはありません」

 そういって、形のよい口元をすこしだけ持ち上げる。意地悪にも、いたずらを思いついた子どものようにも取れる横顔。

 「与えられて動くのではなく、価値をつくる。変えてゆく。なにもかもを、根底から。それができるのが御社だと……御社のスタッフさまだと、わたしは知っているのです」

 ざわり、と空気が揺れる。温度がすこし上がったように感じた。
 弥生さんの視線がふたたび動く。ゆっくりと、こちらに顔を振り向ける。
 えっ。うそ、でしょ。え。
 
 「そうですよね、佐倉さん」

 ざわめきのトーンが上がる。会議室の全員が、こちらに振り返っている。は、とか、なんで、という声が聞こえる。
 わたしは咄嗟に視線を膝に落とし、できるだけ身を小さく縮めた。手が震える。息ができない。でも、なにか言わなきゃ。すぐに返さなきゃ。無理です、ごめんなさい、えへへわたしなんて……。動かないあたまで言葉を選んで、顔を上げる。ごくりと唾を飲み込む。
 声を出そうと口をひらいた、その時。

 「よろしいでしょうか」

 わたしの右で立ち上がったのは、副部長。
 抑えた、だけどよく通るバリトンをまっすぐに弥生さんに向ける。
 彼女は目を細めたまま、小首を傾けてみせた。どうぞ、の意味だ。彼を見るその表情が、なんだかとても嬉しそうに見えた。

 「企画部の副部長、工藤です。二点、確認させていただきたい。まず、本件はわれわれ企画部が対応します。個人の資質うんぬんは関係がない。わざわざの名指しの意図もわかりません。いたずらにスタッフにプレッシャーをかけることは謹んでいただきたい」
 「おい」

 副部長の向こう隣に座っていた部長、ふだんはいるのかいないのか分からないおじさんが慌てて腰を浮かせた。

 「君、し、失礼じゃ……」
 「申し訳ありません。たしかに、ご指摘のとおりでした。お詫びいたします」

 部長がうわずった声を出すのに被せて、弥生さんは立ち上がり、ぺこりと頭を下げてみせたのだ。あ、う、というような音を漏らしながら、部長はぽとんと椅子に腰を下ろした。
 真っ直ぐに彼女に向き合う工藤副部長。その左腕がわずかに上げられ、わたしの前に差し出されている。まるで、弥生さんの視線からわたしを護ろうとするかのように。
 そうした仕草は、見えている。それでも弥生さんは嬉しそうな表情を崩さない。

 「ただ、とある場所でわたしは、御社のスタッフさまをお見かけしました。そのときの経験がとても印象的だったのです。そこから直感を得て、御社のことを調べさせていただき、ぜひご一緒にと考えた。そうした経緯です。ご理解いただけましたら」
 「……二点目。先ほどの御社の条件、ある地域の根本的な構造の転換。数百年の歴史を持つが閉鎖的な街を、その特徴的な街並みを生かしたままで開放したい。外部からひとびとを呼び込み、未来に向けた街にしていきたい。そのための地域計画を含めた住環境構築の提案を求める。そうおっしゃいましたが」
 「ええ」
 「示された提案期限は、二ヶ月後。内容に対して期間が短すぎる。対応は困難です」
 「そうですか」

 抑えた声で一息に言い切って言葉を結んだ副部長に、弥生さんは反駁しない。小さくうなずき、また目元を細めた。副部長は周囲のざわめきを気にする様子もなく、しばらく間を置き、ふうと息をついた。

 「ですから、お断りせざるを得ません。よろしいですね」
 「おいっ」
 「君」

 今度は役員たちの方から声が飛んだ。向いの席、弥生さんの隣に座っていた男性も立ち上がりかけている。が、副部長はすこしも動じない。

 「それと、御社には……いえ、神原次長さんには、なにか個人的な思惑があるように感じられてなりません。だとすれば、なおのこと……」
 「はい、そうです」

 今度は副部長の声を、弥生さんは遮った。軽い調子の言葉。組み合わせた両の手のひらにあごを載せて、目を細めて見せる。

 「個人的な存念です。さきほども申し上げたとおりです。既存の価値観、硬直した世界を壊してほしい。当社の、この業界の、とある地域とそこで暮らすひとたちの……そうして、わたし自身、の」
 「……話にならない」

 副部長は息を吐き、長机のうえの書類をまとめはじめた。部長があわあわと手を伸ばすが、動きを止めない。ちらっと左のわたしを見下ろす。くいっとあごを廊下のほうに曲げて見せた。出るぞ、というのだろう。
 でも、わたしは、動けない。
 副部長の腕に護られ、その向こうに弥生さんの表情をみたとき。あの日と同じ色を湛えたままでのその瞳に捉えられたとき。彼女のぜんぶの想いを、長かった彼女の勝負の、いまが最後の時間であることを、伝えられたとき。
 最終試合。よろしくお願いします。
 その言葉を、思い出したとき。
 
 俯いて、胸のなかを探す。
 探しているものはすぐに見つかった。
 だって、だって。
 ずっと、ずうっと、そこにあることなんて。わたしにはわかってたんだから。

 ふう、って、息を吸う。俯いたままだ。そうして、ゆっくりと吐く。
 吐き終わったときに、わたしは、わたしを止める言葉をつくることができなかった。
 なら、仕方ないよね。

 「……わたしが担当します。それで、よろしいでしょうか」

 がたり、と、右から聞こえた。副部長が狼狽して椅子に膝をぶつける様子って、レアだ。ふふ。覚えとこ。きっと一生の思い出になる。
 震えっぱなしの手を胸にあてて、彼をみあげて頷いた。笑おうとしたけど、引き攣った。だって、言えないじゃん。

 いまこの部屋を出るって、弥生さんの前から立ち去るって。
 降りることになるんだよって。
 にせものなりに立つことができた、あなたの隣から、って。