背中やもり状態。
つまり、壁に背中と手のひらをぴったりと貼り付けている。壁と一体になるために。走って逃げたかったけど叶わないから、せめてもの存在滅却である。
その状態で声なく叫んでいるわたしに、ケイン部長は首を傾げてみせた。
「……なんか、悪いこと言っちゃった? 僕」
「いえ、その、も、申し訳ありません……す、すごい大手さんだなあって、びっくりしすぎちゃって……あはは」
「うん、ほんとだよね。あ、しかもね。神原地所、急に参加することになったらしいよ。資料が発送されたのが金曜日だから、その日に決まったくらいなんだろうね。あそこだけ資料が後付けで同封されててさ。それで一応、企画部さんにも共有しておこうと思って……ところで、大丈夫?」
背中を壁に沿わせたまま、ずるずると滑るようにずり下がってゆくわたしを不思議そうに目で追うケイン部長。
今朝、出社してすぐにデスクの奥にしまい込んだ一枚の名刺を思い出している。あのひとの、少し寂しそうで、だけどまっすぐにこちらを見つめる、強く綺麗な瞳を。
神原、弥生《やよい》さん。神原地所、アライアンス事業部次長。
今日から、最終試合。
どうぞよろしくお願いします。
まさ、か。ね。
そんなこと、あるわけ……ない。うん、ない。
と、そのとき。
企画部のフロアに通じるガラス扉に人影が映った。音もなく、すっと開く。わたしは壁に背を預けたまま顔を振り向けて、固まった。
扉を出たところで立ち止まり、無言でこちらに目を向けている工藤副部長。ケイン部長と壁のあいだに挟まれているわたしと、挟んでいるひとへと、交互にゆっくりと視線を送る。
いつもの氷点下の視線……というより、なにか斬りつけるように細められた目。
「……なにをしている」
「あ、工藤さん。ちょうどよかった。あなたのとこ、行こうとしてたんだ」
ケイン部長も振り返り、手に持っている書類の封筒を振ってみせた。副部長の視線をふわんと包むように笑っている。氷の刃を、お日さまの下に差し出したみたいな。役職でいえばケイン部長のほうが上だけど、年齢が近いこともあり、ふだんからこんな感じでため口で話している。
「うちの佐倉がどうかしたか」
「ん? なんだか元気がなかったみたいだから声をかけただけだよ。企画部さんはいつも夜遅いらしいし、鬼の上司がきついからね。ちょっと疲れちゃったんでしょ……ね、佐倉さん」
急に振られて、ぴくんとなる。肩をすくめて小さくなっていると、副部長に背を向けたケイン部長の目が意地悪に撓んだ。囁くような、でも、副部長には聴こえるほどの声を出す。
「いつでも戻ってきていいんだよ、僕のところ。待ってるんだから」
「……え、あ……」
なにも返せないでいるうちに、副部長がケイン部長の背に歩み寄ってきた。にやっと笑ってケイン部長は振り返り、副部長の胸に書類の封筒をぽんと当てる。
「これ、定例の合同コンペの書類。今回は大手さん入ったから参加するかどうか決めて」
「……君のところで判断したんじゃないのか」
「あはは、提案するのは企画部さんの仕事だからね。可能性は高くないけど、やるなら営業部は全力でサポートさせてもらいます。勝てる提案、ならね」
と、ぱたぱたと廊下を走る音が近づいてきた。
営業部の顔見知りのひと。振り返ったケイン部長と工藤副部長を見つけて急停止し、ぺこりと頭を下げる。
「ケイン部長、お電話ありました。なるはやで折り返してほしいとのことです」
「ああ、ありがとう。いま戻るよ。どこから?」
「神原地所さん、っておっしゃってました」
「び」
最後のはわたしが無意識に発した音声だ。思わず副部長の顔を見上げてしまう。さぞかし驚いただろうと思ったし、なんとなくわたしが叱られるような気がしたのだ。いや、叱られる理由もないんだけど……。
でも、副部長はほとんど反応していなかった。わずかに片眉をあげただけ。それでもわたしに、ちらと視線を落とした。
そのほんのわずかな動作を、ケイン部長が横目に見ている。少し肩をすくめるようにして、営業部のひとの方に手を上げてみせた。
「ああ、すぐ戻るよ。ありがとう」
そうして踵を返し、工藤副部長の肩をぽんと叩いた。
「仕事がハードなのはいいけどさ。メンバーのこと、よく見てあげてね。それと……」
「なんだ」
副部長の耳元に口を寄せる。
「立場を使って業務外の影響力を及ぼされてる、なんて、あなたのところのメンバーから聞こえてこないことを祈るよ。そうなったら、僕は……」
「下らん」
相手の声を遮るように、副部長は短く鋭く、言い切った。気圧されたように少し身を引いたケイン部長は、ふふ、と思わせぶりに微笑して首を振り、そのまま去っていった。
あとに残るわたしと、工藤副部長。
相変わらず壁に挟まれているわたしだけど、挟む役はケイン部長から副部長に代わっている。周囲の気温も小春日和から急降下した。たぶんいま、マイナス十度くらい。心なしか少しずつ距離を詰めてくる副部長。
「……言いたいことがあるなら俺に言え」
「えっ」
「あいつに言えて、俺には言えない、その理由を明確に……」
いいかけて、副部長はぐっと息を呑み、俯いた。壁の向こうに聞こえないように声を絞っている。その掠れ方が、抑え方が、わたしのどこかに響いている。
「……などということを、言える俺ではないな」
「……い、いえ」
「わかっている。無理をさせたのも、理不尽な目に遭わせたのも俺だ。責任があることを充分に理解している」
「……」
「刺したいのであれば、刺せ。立場を背景に業務外で連れ回され、着たくもない服をきさせられ、行きたくもない場所に……」
「ちがいます」
低く、小さな声だ。
でも、下を向いたまま、迷いなく発した自分の言葉に、自分自身がいちばんびっくりしている。その戸惑いは、でも、次の言葉を止める力を持っていなかった。
「ちがいます。無理やりじゃないです。わたしが、納得したんです。副部長のスーツ、ダメにしちゃったから、お詫び、に……いえ、それも違います。あの……」
顔を上げる。なにをいう美月。副部長、目を丸くしているだろう。やめておけ。
「楽し、かった、です。副部長と、ご一緒できて。知らなかった世界、見させていただけて。わたしのこと、となりに、って……」
ぶるる。
ふいに鳴った小さな呼び出し音と振動がわたしの言葉を切り、ここが会社の廊下であることを思い出させた。ポケットに入れていた携帯が鳴ったのだ。
わずかなあいだ身動きせずにわたしの言葉を待っていた副部長は拳を口にあて、咳払いをした。わたしはわたわたと携帯を取り出し、副部長から離れる。斜め向かいの給湯室に逃れて通話ボタンを押した。
「……佐倉です」
『ああ、佐倉さん。千穂子です。いま、大丈夫かしら』
その名前にすぐに反応できなかった。誰、となり、そのあと目を見開いてひゅうと息を吸う。
千穂子さん。神原グループの長、神原ホールディングス会長。
「あっ、はい、だいじょ、ぶ、です」
『このあいだはゆっくりご挨拶もできずに失礼しました。いまお仕事中なんでしょ。ごめんなさいね、なんだかいてもたってもいられなくて、電話しちゃった。弥生から見せてもらったお名刺、携帯の番号が入ってたから』
「は、はい……なにか」
『うん、弥生から話を聞きましてね。ちょうどお仕事が近しいし、ほら、このご時世に惚れた腫れたの修羅場でもないでしょうって。だから、お仕事を通してあなたを確かめたいって、あの子、そんな言い方するもんだから、わたしもおかしくて……』
「……は、あ」
『きっと今日あたり、お伺いすると思います。うちの弥生』
「はえっ?」
思わず出した声が給湯室に反響する。
『黙っててって言われたけど、さすがに佐倉さん、いきなりじゃびっくりするだろうなって。ふふ、ごめんなさいね。こういう家系なのよ、うち。女は度胸』
「……」
『でも、これで覚悟決めてくれたら、わたしも嬉しいわ』
「……覚悟……って」
『言ったじゃない、あの時』
そういって、千穂子さんは少し間を置いた。
『これっきりにしなさいよ、って。あなた、婚約者のふりをしてくれって言われたんでしょ、湊に。そんなの、受けちゃダメ。叱りつけなさい。馬鹿にするな、って。だって、あなたの気持ち、可愛いくらい丸わかりなんだもの。そんなの、ダメ。これっきり』
「……え」
『だから、わたし、どっちも本気で応援することにした。あなたも弥生も、ね。ああ、身内にはあなたと弥生のこと、それとなく伝えておいたから、どうかご遠慮なく。さ、試合開始! うふふ、楽しみね』



