終電で鬼上司の肩を枕にしてしまいました〜会社生活終了と思ったのに、終わったのは平凡で退屈な日常でした〜


 神原弥生《かんばらやよい》さん、二十七歳。わたしよりふたつ上。

 お父さまはグループの中心企業、神原製鋼のいまの社長さん。そのお母さま、つまり弥生さんのおばあさまに当たるのが千穂子さん。亡くなった先代社長の奥さまだ。
 上にお兄さま……実の兄と、お姉さまがあるらしい。お兄さまも、お姉さまの旦那さまも、グループ企業のひとつを任されているとのことだった。
 要するに、弥生さんはいわゆる本家のお嬢さまなのだ。

 彼女はこの土地、神原郷で生まれ、ずっと暮らしているらしい。
 彼女が小学校にあがるころ。副部長……神原湊《かんばらみなと》さんが、ある日とつぜん神原郷にやってきたという。副部長のおじいさまが、先代社長、千穂子さんの旦那さまの末の弟。だから、弥生さんにとって副部長は、再従兄弟《はとこ》だ。
 副部長のご両親は神原郷の外の世界、ふつうの社会人として働いていた。でも、ある事情で副部長ひとり、本家が預かることになったという。
 事情……は、湊にいさんに直接聞いてくださいね、とのことだった。

 お兄さまと同い年だったこともあり、弥生さんたちきょうだいは、副部長……湊少年を、その住まいである離れに頻繁に訪ねた。そのように大人から言われてもいたらしい。でも、湊少年は心を開かなかった。離れにいるときはいつも静かに本を読み、学校が終わればひとりで郷の奥の森を歩いていたという。
 そういう姿を、弥生さんは何年も見続けた。
 寂しそう、という気持ちで見ていた背中を、子ども心に別の温度を持つ視線で追うようになっていた。いつのまにか、その姿だけを探すようになっていた。彼の隣にいる自分を思い描くようになっていた。

 それから、です。
 弥生さんはそういって、穏やかに微笑したのだ。
 それから、ずっと。ずうっと、まっすぐ、お伝えしてきました。
 言葉で、手紙で、そうして、なにより好きだったピアノの音色で。
 でも、届かなかった。

 はあ、と、水面で息を継ぐような仕草と表情で上を向き、弥生さんは鏡台の横にやってきた。手には何枚かの服がかかっている。そのままで身体を屈め、わたしの耳元まで顔を寄せる。

 だから、今日から、最終試合。
 どうぞよろしくお願いします。

 「……くら。おい、佐倉」

 肩を突かれ、わたしはシートの上でびくんと全身を跳ねさせた。
  
 「ひゅ、ふぁ、へい」
 「どうした。いや、疲れただろうとは思うが、大丈夫か。もう少しここで休憩していくか」
 「あ、だいじょうぶ、です。すみません、ちょっとなんかいろいろ、思い出しちゃって」
 「まあ……無理もない。すまなかったな」

 エンジンをかけていない運転席から助手席のわたしに身体を振り向け、副部長はなんと、小さく頭をさげてみせたのだ。うわ。社内でも副部長がそんなことするの、見たことない。レアなもの拝めたなあとどきどきしながら、わたしは無言でぺこりと返礼した。

 クルマに差し込む日差しはもう夕方の色を帯びている。近くのクルマに先ほどまで会場にいたひとたちが乗り込む姿、見送る姿が見えている。
 あのあと、わたしは身支度をして会場に戻り、副部長の隣で会の終了までつきあったのだ。弥生さんはいろいろ手伝ってくれたあと、ひと足先に戻りますね、と出て行ってしまい、それきり会場では会わなかった。もしかすると、家に帰ってしまったのかもしれない。

 副部長は出口でいろいろなひとに挨拶をして、わたしはあいまいな表情を浮かべながら彼にあわせて頭を下げ続けた。そうしてようやく人波が切れて、自分たちのレンタカーに戻ってきたという次第だ。
 ばたんとドアを閉めると同時に、わたしは肺の底から息を吐き出し、深い回想の底に沈んでいたのである。

 「では、出発するぞ。このまま自宅の最寄まで送るが、かまわないか」
 「は、はい、お願いします……」

 玉砂利を踏みながらクルマは滑り出し、もときた道を戻ってゆく。古く静謐な街並み、白で統一された商店街、そして……あの服屋さんを、通過した。

 「あ、あれ? これ、服、返さなくていいんですか……?」
 「返す? ああ、サイズ違いのときの話だろう」
 「いえ、じゃなくて、これ、レンタル……ですよね」

 副部長はちらとこちらを見て、軽く眉をあげて首を捻った。

 「言っている意味がわからんが、さっきの服なら購入したもので、君の所有物だ。洗って手入れすればまた着られるだろう。それから、いま君が身につけているのは、弥生のものを借りたのではないのか」

 胸元を見下ろし、わあと叫んであたまを抱えた。勢いよく振り上げた手が天井にぶつかりめちゃくちゃ痛かった。

 「やば、どうしよ……借りたまま、帰ってきちゃいました」
 「構わないと思う。どのみちクリーニングして返すのだろう。送ればいい。あて先は俺が知っている」

 俺が、知っている。
 ずっと、ずっと、お伝えしてきました。

 副部長の言葉に、弥生さんの言葉が重なって聴こえる。
 最終試合、といってふわりと笑った顔を思い浮かべる。
 く、と、どこか奥の方が痛んだ。

 「……しかしまさか、初手から見破られると思わなかった。恐るべき洞察力だな、ふたりとも。正直、想定外だった。参ったよ」

 そういい、副部長はため息まじりに苦笑いを浮かべてみせた。
 弥生さんと控室で交わした会話を、副部長にも伝えていたのだ。彼女にまで見抜かれたことで副部長も少しショックを受けていたようだったが、最後には可笑しそうに背を曲げて笑ったのだ。そうか、ダメだったか、と。
 ただ、その表情はわたしには、どこか少し苦しいような、なのにそのことを予期していたような、そんな感じに見えたのだ。

 弥生さんの最後の言葉、最終試合、これからよろしく、は伝えなかった。
 わたしにも意味がわかってないし、想像するような意味ではないはずだ、と、自分にブレーキをかけたのだ。自分と副部長とのことが進むようなら、そのときは祝ってほしい、くらいの意味だと、呑み込んだ。

 「そう……ですね。まあ、でも、わたしが見ても見破れたかも。なんせ、わたしですから」
 「ふ……まあ、そうかもしれないな」
 「あっ、ひど。だったらわたしになんて任せないでくださいよお」
 「俺と終電に乗り合わせたのが運の尽きだったな。だが、まあ、役目は終わりだ。長い時間、付き合わせてすまなかった。うるさい親戚筋を黙らせる方法はまた改めて考える」
 「……はい」

 木立が切れて、また海が見える場所に戻ってきた。なかば落ちかけた陽に副部長の輪郭が浮かんでいる。肩肘をついて悠々と運転しているその横顔に、わたしはなんとなく、弥生さんが言っていた少年のころの副部長、湊少年の寂しさを見たような気がした。
 なにか声をかけたいと思ったけれど、そのままずっと黙っていた。

 大戸島を通過し、都心に向かう。自宅の最寄りの駅にクルマが着いたころにはもう十九時を過ぎていた。

 「ここで構わないか。必要ならタクシー代は負担する」
 「いえ、すぐ近くです。ありがとうございました」

 わたしのマンションの住所を訊かない副部長に、なんだかもの慣れた大人を感じて、同時に弥生さんの顔を思い出す。副部長に悟られないように小さく首を振る。もう、いいでしょ美月。忘れようよ。ドアを開けて降り立ち、ウインドウを覗き込む。

 「ちょうど金曜でよかった。土日はゆっくり休んで、また週明けには元気な顔を見せてくれ」
 「はい、あの……改めてスーツのこと、それと、今日のこと。いろいろすみませんでした」
 「はは。昨日と今日で、君の謝罪をなんど聞いただろうな。こちらこそ、すまなかった。ありがとう」

 手を上げて、副部長はクルマを出した。
 それを見送り、駅前のコンビニでおにぎりと春雨スープを買って帰宅する。電気をつけずによろよろとベッドに近寄り、ばふりと顔から倒れ込んだ。
 
 はあ。
 宇宙が、回転してる。
 もうわたしの脳に処理できる事態じゃない。
 いろいろ限界だったのだろう。目を瞑った瞬間、そのまま眠り込んでしまった。夜中の二時くらいに目が覚めて、おにぎりだけを水道水でもさもさと平らげた。