終電で鬼上司の肩を枕にしてしまいました〜会社生活終了と思ったのに、終わったのは平凡で退屈な日常でした〜


 「……以上が神原地所、アライアンス事業部からのご提案となります」

 十分ほどの説明を終え、弥生《やよい》さんは手元のペンライトを胸元に収めて微笑んだ。ほんのすこし首を傾げて会場をゆっくりと見渡す。その所作のどれもが、ほんとうに綺麗。
 いくつかの質問に答えて、最後に弥生さんは少し声を高くした。

 「アライアンス。繋がり、協働、共にあること。わたしたち神原地所アライアンス事業部は、皆さまの隣を歩かせていただくことではじめて輝きます。皆さまと同じ空気を吸って、同じ空を見て、同じ街をつくって。それが、わたしたちの仕事です。どうか、どうか、どこまでもご一緒できますように。神原地所でした」

 すっと一歩下がって頭を下げる弥生さん。わあっ、という声、拍手の音。座って飲みながら話を聴いていたおじさんたちまでみんな立ち上がっている。
 すごい。ほんとに、すごい。最初はいろんなことで頭ごちゃごちゃしてて話が耳に入ってこなかったのに、最後はつい聴き入って、感動しちゃって、こんなたくさんの拍手を送っている。さっき副部長に握られた温度をまだ残している手で。
 その副部長も、同じように手のひらを打ち合わせている。

 「……すごい、ですね」

 言わなくてもいいだろうけど、言葉に出る。それを副部長も頷いて受け取った。それでもしばらくステージの方に置いていた視線をわたしのほうに振り向ける。なにかを言おうとしているのだろう。ゆっくりと深呼吸をして、ふっと息を止める。その仕草に、わたしまで緊張する。背筋を伸ばし、顎を引き、すこし上目に彼をまっすぐ見上げる。
 暑いのか、気持ちが昂っているのかわからないけれど、すこし血色がのった彼の唇。形のよいそれが言葉を紡ぐのを、わたしはじっと待っている。

 と。

 「湊《みなと》にいさん!」

 正面。少し離れたところから声が投げられた。ステージのほうを向いていたひとたちの向こうからだ。その背中のいくつかがわさわさと揺れて、左右に割れる。誰かに道を譲ったような動きだ。男性が多く、みな背が高い。だから、そのひとは少しかき分けるように、もがくように姿を見せることになった。
 落ち着いたベージュのジャケット、ネイビーのワイドパンツ。優しい色合いのブラウスの胸元にはいっている刺繍に見覚えがある。わたしの胸、さっきの店であてがわれたこの衣装のものと、よく似ていた。
 わたしと同じ、か……少しだけ年上、かな。
 とても、とても綺麗なひと。

 「……にい、さん」

 真っすぐに副部長を見ながら、少し息を切らすように肩を上下させながら、そのひと……弥生さんは、もういちど同じ言葉を口にした。少し切れ長で端のあがった目を見開いて、瞳を揺らして、喜びの感情をすこしも包み隠そうとせずに表情のぜんぶに出している。
 いちど立ち止まり、副部長の姿を目に焼き付けようとするように時間をとって見つめて、ゆっくりと近づいてくる。数歩の距離で立ち止まって副部長を見上げる。胸元に手を置きながら。
 副部長はなにもいわない。それでも、目を逸らしもしない。

 そうして、わたしは。
 わたしは半歩、退がった。
 そんな必要、ないのかもしれない。でも、退がった。副部長の後ろに隠れるように。
 
 「びっくりしました。来られてたんですね。お元気そうで安心しました。さっきステージの上でにいさんを見つけて、すごく驚いて。はじめてじゃないですか、神原会にいらっしゃるの」
 「……はじめてではない。高校生の頃に、なんどか来ていた」

 少し不自然なくらいの間をおいて、副部長は抑えた声で返した。可笑しそうに口元を抑えてくすくすと笑う弥生さん。

 「ふふふ、子どものうちは数に入りません。でも、それを憶えていらっしゃるなら、まだ小学生だったわたしがずうっと、この会場でにいさんの後ろにくっついてたのも忘れてはおられないということ、ですよね?」
 「……ああ、忘れてはいない」
 「あら、嬉しい……そうだ、さっきの演奏、聴いていただけました? ふふ、こんなにたくさんのひとの前での演奏なんてすごく久しぶりで緊張しました。でも、にいさんに聴いていただけたなんて。よかった、思い切って演奏お引き受けして。ねえ、どうでした、ご感想……」

 楽しそうに話しながら、副部長の目線が動いたのを見つけたのだろう。わたしももちろん、気がついた。こちらに小さく振り返ったからだ。その目線を追って、弥生さんがわたしを見る。
 と、副部長の腕が動いて、わたしの背に当てられる。前に出ろ、と言われた、の、かな。でも……だけど。もう、バレちゃってる、し。それに……。
 戸惑いながら見上げた副部長の横顔には、表情が浮かんでいない。静かに、まっすぐに、弥生さんに視線を向けている。

 「……こちらは?」

 弥生さんが穏やかに声を出す。穏やかなのは表情も同じだ。ほんのすこし口元を綻ばせ、わたしに向けてちいさく小首を傾げてみせる。
 副部長は声を出さない。出せない、のかな。
 しょうがない、よね。自分で言うよ。にせものです、ごめんなさいお邪魔してます、って。
 少し踏み出そうとした、ちょうどそのとき。

 「あ、わんわん! ねえ、わんわん来たよ!」

 小さな子どもの声。左手のほうでぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んでいる姿が見えた。その子の見ている方向、ステージに目を向ける。舞台袖からファミリー風のひとたちが数人と、大きな白い犬が現れたところだった。俳優さんたちなのだろう。歓声に手を振ることもなく、寸劇のようにある家族の日常を振る舞い出した。

 「はい、では次の企業は……ええと、株式会社あおいファシリティーズさん。住宅設備とエクステリアを手がけておられて、最近はペットとの共生をテーマとしてさまざまな提案を……」

 企業紹介の声が続く。大きい音だと思っていたけれど、すぐに聴こえなくなった。わたしの神経のすべてが、いま正面にいるひとに向けられているためだ。
 踏み出したときに出鼻を挫かれるかたちになったわたしはふっと息を呑んで、もういちど声を出そうと胸に手を置いた。いちど俯き、弥生さんに顔を向ける。掠れるような声を出す。

 「……あ、あの……わた、し……ほんとうは」

 その、とき。
 副部長の右手が、わたしの左手に添わされた。
 握るでもない。指が、触れる。でも、彼の細く長い指が、わたしのそれのあいだに、つっと入り込む。擦るように動き、離れる。

 いいから。
 そう、言われている気がした。

 「このひとは、俺が連れてきた。千穂子さんに、そして……君に、会わせるために」

 会場が鎮まったように思えた。ステージの音も、喧騒も。
 そんなはずないって分かってる。三人とも、そう大きな声を出してない。誰にも届いてないだろう。でも、だけど。
 わたしの世界の音は、たしかにぜんぶ、消えたのだ。
 
 「……わたし、に?」

 柔らかな表情のまま、ううん、ほんの少しだけ目を細めて、弥生さんは呟いた。

 「そうだ。君に」
 「……そうですか」

 弥生さんは静かに言葉を重ねた。手を身体の前で改めて重ね合わせる。指先がきゅっと握り合わされたのを、わたしは二人の言葉しか音が存在しない世界で、ぼうっと見つめている。そんなわたしにもういちど視線を置いてから、彼女はひとことずつ、確かめるように唇を動かした。
 
 「では、素敵なご縁をこれからご紹介いただけるのですね」
 「ああ。改めて紹介する」

 く、と背を押される。戸惑いながら半歩を踏み出す。弥生さんのまっすぐな瞳。ほんの少し色が薄いのが、副部長と似ているなあとぼんやり思っている。

 「佐倉、美月さん。今日、この場所で、俺のとなりにいてほしいと望んだひとだ」