ピアノの方を見つめたまま動かない副部長。
声をかけていいのかわからず、わたしは黙ってその横顔を見上げている。なにかを堪えているような、もどかしさを扱いかねているような、そんな横顔を。
しばらくすると、わたしの存在を思い出したのだろう。ふいに背を伸ばすように姿勢を正し、拳を口に当ててみせた。んむ、みたいな音を出す。
「……あ、ああ。いい曲だな。そう、ピアノの生演奏もあるし、歌手が来ることもある。何年か前にはロックバンドが来たこともあるぞ」
すこし上擦ったような、明るくつくった声を出す副部長。
わたしはいちど、ピアノのほうへ顔を振り向け、それから笑顔を副部長に向けようとして、失敗した。俯く。
なんだろう。
副部長のしぐさ、さっきのお店からクルマに乗ってるときから、いま、ぼうっとしているのを目にしただけで、なにかが落ちてくる。落ちて、わたしの心を掴んで、冷たいところにほうり出そうとする。
なんだろう。
もう、みたくない。知りたくない。
ものすごくおっかなくて、冷徹で、仕事では一ミリたりとも妥協しない鬼の工藤、氷の副部長。わたしが見慣れた、大好きな……上司として好きな、尊敬する副部長。
これ以上すすめば、その彼の、知ってしまってはいけないところを知ることになる。
わたしは、たぶん、なにかが怖いんだと思う。なんなのかわからない、なにかが。
でも、支えた。胸のなかで落ちてくるものをいっしょうけんめい、両手を張って支えた。おもいっきり力をいれて、ばんって跳ね返した。
そうやって、よい笑顔をわたしは見せることができた。
「へえ! そうなんですね。ふふ、お金持ちのご親戚の集まりっていうから、なにか和室みたいなとこでみんなでいかめしく睨み合ってるのかと思っちゃいました。おのおのがた、いざ、みたいに」
背伸びして口を寄せて、彼にだけ届くように小声で送ったその言葉に、副部長はどこかほっとしたような表情を見せた。ふっと息を吐き、肩の力を抜く。そのことにわたしも救われる。
「君にとっての上流の象徴は武家社会か。武家というより忠臣蔵だな……これは、そうだな、神原一族の忘年会のようなものだ。まだ十一月だからずいぶん早いが、みんな立場柄、年末年始は多忙なんだ。だから少し早めに集まって、ついでにグループ企業どうしの交流も深めよう、っていうところだな」
「へえ……じゃあ、みんなすごいところの社長さんたち、だったりするんですね、やっぱり」
「まあ、そうだな。俺にとっては子供の頃から見慣れた親戚たち、でしかないけどな」
小声でそう言い合っているうちに、ひとりの男性が近づいてきた。顎髭を蓄えた六十くらいのそのひとは、赤い顔をして手に持ったワイングラスをゆらゆら捧げ持っている。
「おやおや、君がこんなところに顔を出すのは珍しいねえ、湊《みなと》くん」
「ああ、茂樹おじさん、お久しぶりです……相変わらずノンベで安心しました」
「あっははは、君も変わらないな。ああそうだ、うちの末のせがれが君と話したいって言っていたんだ。なんだかロンドン留学に興味があるらしくてな。君、あっちに詳しいだろ。ちょっと付き合ってもらえないか」
軽い調子で副部長と言葉を交わしながら、こちらに顔を向けて軽く会釈をみせる。わたしも慌てて居住まいをただし、ぴょこんとぎこちなく頭を下げた。わたしが誰なのか、みたいな詮索はしてこなかった。そういう場所なんだろう、ここは。
副部長はわたしに振り向き、ごめん、という形で手をあげてみせた。近くのテーブルから飲み物の入ったグラスをとって手渡してくれる。
「ちょっと、外してくる。すぐ戻るから。なにか食べててくれ」
「あ、はい……だいじょうぶです」
「悪いな、美月」
副部長はそれだけ言い残し、茂樹おじさんというひとに肩を抱かれながら向こうへ歩いて行ってしまった。その背を鉄筋入りの石細工のように硬直しながら見送る。
美月。みづき。みづ……え?
またも齧歯類崩壊が顔を出す。
名前よばれただけじゃん。ふつうじゃん。友達だって同僚だって、みづき、って呼ぶじゃん。
そういう脳の呼びかけに、わたしの心臓はいつまでも応答してくれなかった。
少しよろめきながら数歩下がり、壁際に逃げようとした。できれば床に溶け落ちたかったのだが、壁でもいい。ちょっと支えというか液体になったわたしをどっかに貼り付けておかないといけない。
と。
とん、と背中になにかが当たる。
「あら、ごめんなさい。大丈夫?」
振り向いた顔の正面には誰もいなかった。わたしの首元より下からこちらを見上げているそのひとは、人懐こそうな笑顔を浮かべて小さく会釈をしてみせた。
うちの北海道のばあちゃん、もう八十くらいになるけれど、たぶん同じくらいかなと感じた。とても小柄な女性。
なんというんだろう。ええと、明治とか大正のカフェの店員さん、メイドさん? そういうひとたちがつける真っ白な前掛けをしている。襟元や袖から伺う浅葱色の着物には、日向紋、っていったかな。複雑な紋様が白く浮かんでいる。
「あっ、ごご、ごめんなさい、こちらこそ不注意で……」
「いいええ、邪魔にならないように隅っこを通ろうとしたら、かえって邪魔になっちゃいました。ほんとにごめんなさいね」
そう言いながらくすくす笑っている。わたしもつられて表情を崩すと、彼女は思いついたように手に持っていたものを差し上げた。タッパーだ。なかに……ナスと、きゅうり、それと……ごぼうかな、それぞれひとくちの大きさに切られたものが収まっている。
「これ、いかが。皆さんにお配りしているんだけど、だあれも食べてくださらなくて」
「えっ、あ……」
「糠漬け。糠床からわたしが作ってるんですよ。今年は上手にできたと思うんだけど。お嫌いじゃなかったら、どうぞ」
そういって楊枝を差し出してくれた。こう見えてわたしも漬物は手作り派だ。スーパーで買った浅漬けの素で冷蔵庫で二十分冷やせば出来上がりなやつだけど。
いただきます、と言って楊枝を受け取り、きゅうりをいただく。
「ん、おいし……!」
「そうお? よかった、嬉しいわ。もっとどうぞ」
ナスもごぼうもいただいた上で、二巡した。しながら片手に持っていた飲み物を呷る。これほんと美味しい。やばい。ビールが欲しい。あとごはん。どっかにないかな白飯。
ごりごりと喰い、ぶはあと息を吐くわたしを嬉しそうに見つめるおばあちゃん。細い目をさらに細めてにこにことしている。いいなあ。うちのばあちゃん、ばりばり洋風でパンとお肉至上主義でこういうの絶対しないから、なんか嬉しい。
誰のおばあちゃんだろう。きっと、ついてきたはいいけれど誰も話し相手いなくて、寂しいんだろうな。もしかしたら、初めて、なのかな。わたしといっしょで。
「あの、今日はどちらから……?」
「わたし? そうね、割と近くに住んでて。お邪魔かなあとおもったけど、誘われて」
「そうなんですね。わたしも今日は、ほとんど強制連行で」
「ま。どなたのお連れさまかしら。こんな可愛らしいお嬢さんほうっておいて、ダメね……ああ、お飲み物、とってきてあげましょうね」
そういってわたしの手から楊枝をとり、近くのテーブルの空いた皿を手際よく重ねて持っていこうとする。危なげはないけれど、五枚ほども重ねたから少し慌てて手を伸ばした。
「あっ、わたしも、お手伝いします」
「いいのよ、こういうのはすることのない年寄りに任せて。ゆっくり、楽しんでらして」
と、その時。
がしゃん、という音に続いて、なにやってんだ、という声が響いた。
向こうのほうで若い男性が慌てた様子でしゃがみこんでいる。瓶が床に転がり、泡だった液体が勢いよくその口から噴き出ている。
「ったく、こんなところでまでお前は、俺に恥をかかせるのか!」
「も、申し訳……ありません……」
叱責しているのは五十代くらいの男性。高級そうなスーツと革靴だが、そのどちらも濡れている。若い男性がお酒を注ごうとして失敗したのだろう。上司と部下、という感じだ。
部下がポケットからハンカチを取り出して必死に上司の足元を拭こうとする。その手を、上司は膝を軽くあげて蹴るようなしぐさで遠ざけた。
「馬鹿が、そんな汚い布で拭いたら跡になるだろうが。もういい、お前はもう外で待ってろ。ほんとに使えんな」
若い男性は俯いたまま立ち上がり、ぺこりとぎこちなく頭を下げてそのまま会場を出て行った。後を目で追い、ふん、という感じで顎をあげる男性。注目されているのをわかっているのだろう、ふうと呆れたように肩をすくめて、芝居のように口角を持ち上げて首を傾げた。
これだから、庶民は。
わたしがセリフをつけるとすれば、そんな感じだ。
嫌なものをみたなあ。そう思い、おばあちゃんから皿を受け取ろうと振り返る。でも、さっきまでそこにあった姿がなかった。
あれ、と見回すと、おばあちゃんはタッパーと皿を両手にもったまま、その男性のほうに向かっていた。
ちょっと。え、なにするの。やめなって、危ないから。やばいやつだよ、そのおっさん。
おばあちゃんはずかずかと男性の背に近づいた。
男性も気づいて振り向く。身長差、五十センチというところ。ああ? というように口を動かしながら見下ろして、でも、男性はそのまま固まっている。
「圭太郎」
おばあちゃんがまっすぐに男性を見上げながら言葉を出す。
「あんた、来年から来なくていい。それとね、あんたのとこの新規事業、あれは中止だ。あんたにも、あんたに押さえつけられて縮こまった若い子たちにも、務まるような仕事じゃない」
「……か、会長……」
膝を震えさせている男性を尻目に、おばあちゃんはわたしの方にちょっと振り向き、ウインクをひとつ決めてみせた。



