クルマの速度がわずかに落ちた。
副部長はなにも言わない。
どんな顔してるか、わからない。見えないから。見られないから。
竹林のなかをゆっくりと進んでいる。きらきらした光が零れてきて、橙色の縞のなかを横切るたびに車内が明滅する。その瞬きが、ちょうどわたしの心臓のどくどくという鼓動と合っていて、自分でもわからない自分の心をどこかの誰かに解剖されているような気持ちになった。
「……さっきの店で、聞いたのか」
やがて小さな声で、独り言ちるように副部長が呟いた。なにもいわずに小さく頷く。言わないのは、怒ってるんじゃない。もったいぶってもいない。これ以上くちを開けば、もっと余計なことを言ってしまうだろうと思ったのだ。
「俺があの店に、弥生という女性を連れて行ったことがある、と」
もういちど、頷く。頷いたままで下を向いている。膝に置いた指をじっと見つめている。
副部長はちらとわたしの方に横目を向けた。そのあと、はあ、と大きな息を吐いて、ハンドルを握っていない右手で頬を撫でているようだった。
さっき、わたしの着替えた姿をはじめてみたときと同じ反応。
しばらくどちらも言葉を出さない。
それでもやがて、副部長はもういちど息を吐き、すうと吸った。
「佐倉。あえて、俺は説明をしなかった。抱えている事情も、これから会うひとたちについても。だがそれは、俺のためじゃない。勝手に君の有休を買い取って強引に付き合わせている俺が言えることじゃないが、君が受ける負荷を……」
「副部長」
わたしも副部長と同じタイミングで深呼吸をしていたのだ。彼が話しているあいだにきゅっと目を瞑り、気持ちのなかで首を振った。そうして、ぱっと運転席の方に顔を振り向けて出した声は、彼に言葉を呑みこませた。
振り向けた顔は、ちゃんと笑顔。いつもの朝、出勤して部屋に入ってきた彼に挨拶をするときのように。頼まれていた書類を渡すときのように。出張のお土産をもらってお礼をいうときのように。
会社の上司に向けた、ただしい笑顔で。
「ごめんなさい、へんなこと言っちゃいました。あはは、だからわたしはポンコツだって言われるんですよね。今日のわたしは、買い取られたんです! だから今日は、副部長のおっしゃることだけ聞いとけばいいのです! もう、ほんとばか、わたし」
「……佐倉」
「副部長のお仕事の障りになるようなトラブルを退治するのだって大事な業務……かどうか、は、しらないけど。まあ、でも、とにかく! わたし頑張りますから! ちょっと失敗しても大目に見てくださいね、なんせ庶民なんですから! あはは」
もう一度なにかを言おうとした副部長に、わたしはもっと大きな笑顔をつくって小首を傾げてみせた。運転あぶないですよ、と言いたくなる程度に副部長はわたしを見つめ、小さくため息をついて前を向いた。
「……いろいろ片付いたら、ちゃんと伝える。今日は、借りにさせてくれ」
「あはは、スーツのシミの借りとどっちが大きいのかってはなしですよね。大丈夫、こうみえてわたし、難しいお客さま相手の営業トークには自信あるんですから!」
それで失敗して俺のところに来たんだろ、と副部長が返してくれることを期待した。けど、ずうっと黙ったまま。時おり指先でハンドルをとんとんと叩きながら、視線を前に向けている。道路の先のほうを見ているというより、もっとずっと向こうを見ようとしているようにわたしは感じた。
そうしているうちに、クルマは古いお寺や立派な石壁が続く通りに差し掛かった。歴史を感じさせるのに一分の隙もなく清潔に整っている。人どおりもぜんぜんない。交差するどの通りの奥も深い竹林のような場所に繋がっている。
その一本を奥まで進むと、やがてアスファルトが途切れた。真っ白な砂利が敷き詰められている。こんなとこ、クルマで走っていいのかな。道路の持ち主のひと、いるのかわからないけど、怒られないのかな。割れるだろ、って。
と、うっそりとした茂みのなかに門が現れた。影になっていて遠くからは見えなかったが、とても古いものらしい。お寺……か、お城かな。観光地に寄っていくとは思ってなかった。
「着いたぞ」
門の前でいったん停車して、副部長は短く呟いた。
「……どこに、ですか」
「何度も確認してむしろすまないが、もう忘れたのか。親戚のところだと言ったはずだ」
「……ご親戚、お坊さん、だったんですね……」
「いちおう親戚筋の説明もしたつもりだったが、まあいい。ここは寺ではない。非常に古い家屋だ」
そうしているうち、門の内側から黒服を身に着けた男性が歩いてきた。ウィンドウを下ろした副部長と二言三言、かわしている。どうぞ、というように男性に案内されて門の奥にクルマのまま入ってゆく。
玉砂利の道の左右は、なんというか、巨大な日本庭園。住宅が専門ではあるけど、さすがにそっち方面はあんまりわからない。でも、素直に素敵だと思った。高級感、っていうことじゃなくて、なんだかとても透明に感じたのだ。静か、というか。
情景に見惚れていると、クルマは正面にあった建物の前に停車した。二階建ての、灰青の瓦屋根の建物。漆喰の壁はよく手入れがされているようで汚れひとつ見えないけれど、なんとなく門の大きさや庭の広さからものすごく大きなお屋敷が現れるものと思っていたわたしはすこし意外だった。
と、ドアががちゃりと開く。先ほどとは別の黒服の男性が把手を引いてくれたのだ。白手袋の片手を把手にかけながら、もう片方をわたしに差し出す。へ? と躊躇っていると、少し伸ばしてわたしの手をとった。あ、ああ、そういうこと……。
小型のレンタカーを降りるのにエスコートされたわたしは、どんな表情をしてよいかわからず、にへらと笑った。黒服のひとは特に笑い返してくれなかった。
「行くぞ」
先に降りていた副部長が声を投げてくる。慌てて走り出そうとするが、さっきのこともあるし、黒服のひとたちが見ているからできるだけおしとやかに歩みを進めた。玉砂利、苦手。
改めて建物の正面に立ち、見まわす。軒高は低いけれど、左右にとても大きい。三十、いや、五十メートルくらいありそう。和風建築なのに洋館のような飾り窓が見える。龍のような紋の掘られた破風の下にある玄関は洋館のつくり。重厚な木目の扉の左右にまた黒服のひとが立っている。扉の中央に縦に入れられた明かり取りには上品な切子細工が入っていた。
「……すっ……ごい」
「佐倉。ちょっとのあいだ、仕事から離れるぞ」
耳元に口を寄せて、副部長が囁く。ぼうっと見惚れていたわたしはぴくんと肩を揺らしてわずかに身をずらし、手を口に当てた。
「す、すみません、ふくぶちょ……」
「ここから先は、副部長は無しだ。俺のことは、湊《みなと》、と呼べ。俺も君を美月と呼ぶ」
「……っ」
かあ、っと血液が頭に上る。え、無理。だめ。言えるわけないじゃない。あわあわと手を振っているわたしに目を撓めてみせて、たのむぞ、という形に口を動かした。
背を伸ばし、扉の横の黒服さんたちに聴こえるように声を出す。
「じゃあ、行こうか、美月」
「……あっ、ひゃ、ひぃ……」
だいじょうぶ。脳内から漏れた声はそのまま言語の体をなさぬままに口から漏れ出たけれど、ちっちゃいから。ちゃんとした声なんていま、出せないから。歩み出した副部長の姿を見て扉を両側から開けてくれた黒服さんには届いていない、はず。
転ばないようにちょこちょこと広い背中についてゆく。
扉をくぐると、まずふわんと木の香りを感じた。そこにお料理の匂いが混じってる。天井の巨大なシャンデリアが穏やかな光を落としている。足元はふかふかとした緋色の絨毯。わずかにがやがやという声が広大なロビーの奥の方から聴こえてくるのは、きっと正面に見える大きな扉の向こうからなんだろう。
すたすたと進んでいく副部長。またもや現れた黒服さんが扉を左右に開けてくれる。
ぶわり、と、喧噪がわたしたちを包んだ。
百畳……いや、もっとありそうな洋風の居間。白い布を掛けられたテーブルがいくつも置かれ、そのあいだにたくさんのひとたちが立っている。みな手には飲み物、食べ物。立食形式のパーティをしているらしい。互いになごやかに歓談していて、入ってきたわたしたちに気づいたひとはいないようだ。
と、静かなピアノの音色。
目を向けると、居間の奥に大きなグランドピアノが据えてある。音色はそこに向かう、白いドレスの女性が奏でているらしい。
抑えた音からはじまって、ゆっくりとうねるように高まってゆく。時おり挟まれる強い音が、どこかわたしには泣いているように聴こえた。
「……素敵ですね、ピアノの生演奏があるなんて」
しばらく聴き惚れていたわたしは、副部長の袖をちいさく引いて囁いた。でも、答えがない。ん、と顔を見上げると、彼の目はまっすぐにそのピアノに向けられていた。瞳が小さく揺れている。唇を、きゅっと噛んでいる。
遠くを見るようなその視線に、見覚えがある。
さっき、クルマのなかで。
弥生さんのはなしをしたときに、見ていたから。



