私は少し迷った。三年間、ずっと逃げてきた。だけど今夜は、目を逸らしたくなかった。
口を開くと、濃厚な出汁の香りが広がった。きのこの甘さと鴨の脂の旨みが、後から追ってくる。
「おいしい」
「水野さん、今、すごくいい顔してます」
「……やめて」
「本当のことです」
橋本くんが笑った。声のない笑い方で、目尻がわずかに下がる。今夜は照明が近いから、その細かい動きまで見えた。
私は、自分のパスタにフォークを伸ばした。いつもなら漫然と食べてしまうところを、今夜はちゃんと味わいたかった。
橋本くんの前では、おいしそうに食べたい。そう思いながら、一口ずつ確かめるように噛み締める。
しばらくして、橋本くんが口を開いた。
「今日はちゃんと、俺のこと見てくれてますね」
私は迷ってから、正直に答えた。
「ずっと見てたよ」
橋本くんが目を細めた。
「……麻衣さん」
顔を上げると、橋本くんがこちらを見ていた。麻衣さん、と呼ばれた。水野さん、ではなく。
「今日から、そう呼んでいい?」
問いかけの形をしているけれど、その目はもう決めている顔だった。
「……碧くんが、呼びたいなら良いよ」
声に出してから、頬が熱くなった。碧くんは少し目を丸くして「ありがとうございます」と言った。いつもより、低い声で。
「あなたにずっと、そう呼んでほしかった。碧って」
その一言で、胸の奥に長く沈んでいたものが、最後の一滴まで溶けた気がした。



