紫陽花の短編集物語#2

三日後のコーヒー 第1話  未来の日付と靴ひも

朝。街の片隅にある小さなカフェ**「Café Re-Start」**。店内は静かで、ジャズが小さく流れている。
康太(20代後半、会社員)は、疲れた表情でカウンターに座っている。
康太 (小声で) いつもの、お願いします。
マスター(50代、白衣のような制服)は、寡黙にコーヒーを淹れ、康太の前に置く。
マスター 500円になります。
康太はキャッシュレス決済を済ませ、受け取ったレシートを何気なく財布に入れようとする。
しかし、レシートに印字された日付が目に留まり、手が止まる。
康太 (驚き、レシートをまじまじと見る) マスター。これ、日付が……三日後になってますよ?
マスターは、表情一つ変えずにカウンターの向こうでカップを拭いている。
マスター ああ、それですか。
康太 レジが壊れてるんですか?今日じゃなくて、28日になってます。
マスター (静かに) それ、あなたへのメッセージです。
康太は、レシートの裏に、手書きの小さなメモが書き込まれていることに気づく。
メモ書き 『靴ひもに、要注意。階段の前で。』
康太 (困惑して笑う) はは……なんですかこれ?未来の日記?
マスター (康太から目を逸らさずに) お気をつけて。
康太は、気味が悪いと感じながらも、レシートをポケットにしまい、店を出る。
自宅マンション前。
康太は、階段を上ろうとした瞬間、右足の靴ひもが完全にほどけていることに気づく。
康太は思わず立ち止まり、レシートのメモを思い出す。
康太 (青ざめ、手に汗を握る) (心の中で) 嘘だろ……。
康太は、ほどけたひもを呆然と見つめ、マスターの持つ謎の能力を確信する。


三日後のコーヒー 第2話  傘が盗まれた日

朝。カフェ**「Café Re-Start」**。康太は緊張した面持ちで、マスターの前に座る。
康太 (小声で) マスター、これ、どういうことですか。本当に三日後のことが書いてある。
マスター (淡々とコーヒーを淹れながら) 500円になります。
康太は財布からお金を出す。マスターが差し出した新しいレシートを、康太は恐る恐る確認する。もちろん、日付はまたも三日後。
メモ書き 『傘を会社のロッカーに入れるな。』
康太 (安堵したような、皮肉なような顔で) 傘ですか。分かりました。今日は晴れだけど、絶対ロッカーには入れません。
マスター (静かに) どうぞ、お気をつけて。
康太は決意を固めたようにカフェを出る。
オフィス街。
康太は晴天にもかかわらず、高価な折りたたみ傘を肌身離さず持ち歩いている。会議中も、デスクの足元に置いている。
康太 (心の中で) これでよし。盗まれようがない。マスターの予言は当たらない。
昼休み。康太は、ビルを出てコンビニに向かう。その途中で、突然空が真っ暗になり、バケツをひっくり返したようなゲリラ豪雨が降り出す。
康太 (驚愕し、慌てて折りたたみ傘を開こうとするが、傘がどこにもない)
康太 (ポケットを叩き、鞄を探る。焦燥の表情) 嘘だろ...どこだ...。
康太は、ロッカーには入れていなかったが、カフェを出る時、興奮のあまりデスクの上に置きっぱなしにしてきたことに気づく。
康太 (絶望と怒りを込めて) (心の中で) 傘がロッカーに入っていない**=**濡れない、じゃないのか!
康太は、土砂降りの雨の中、ずぶ濡れになりながら、コンビニに駆け込む。
康太 (心の中で) 未来は、どうあがいても変えられない...。


三日後のコーヒー 第3話  マスターのルール

朝。カフェ**「Café Re-Start」。康太は、昨日ずぶ濡れになったせいか、いつも以上に疲弊した表情**でカウンターに座る。
康太 (苛立ちと混乱を込めて) マスター。俺は、言われた通り傘をロッカーに入れなかった!それなのに、ずぶ濡れになった!未来を変えられないなら、なぜそんなメモを渡すんですか!?
マスターは、無言でコーヒーを淹れる。その手が止まったのは、レシートを差し出す一瞬だけ。
マスター 500円になります。
康太は、レシートを掴むように受け取り、裏面を睨む。今日の日付ではなく、またも三日後の日付。
メモ書き 『マスターに、秘密を聞くな。』
康太 (怒りで声が震える) ふざけないでください!俺の行動を読んでるんでしょう!なぜこんなことができるんですか?あなたは、未来から来たんですか?
マスター (初めて、顔を上げる。その目は静かだが、深い諦めを宿している) 私は、あなたが見ている**「未来」**のことは、何も知りません。
康太 (混乱し、身を乗り出す) 嘘だ!じゃあ、このメモはなんなんですか!?
マスター (カウンターから、古い、色褪せた写真を取り出す。そこには、若き日のマスターと、彼を見つめる女性が写っている) 人はね、**「未来が見える」と思うと、「今」**を見るのをやめるんです。
康太は、写真に釘付けになる。写真の女性は、悲しげな瞳でマスターを見つめている。
マスター (静かに) 私の**「ルール」は一つ。「未来は変えられない。だが、未来を見ようとした行動で、今、何が変わるかを見届ける」**。それだけです。
康太 (心の中で) (マスターは、この能力のせいで、何か大切なものを失った……?)
マスター (そっと写真をしまい、康太に) 未来に怯えて、今、持っている傘すら忘れる。それが、未来を覗こうとした代償です。
康太は、マスターの言葉の重さに、未来の不幸よりも、今の自分の行動が恐ろしくなる。


三日後のコーヒー 第4話  最も恐ろしいメモ

朝。カフェ**「Café Re-Start」**。康太は、以前の苛立ちとは違い、重い覚悟を決めた表情でカウンターに座る。
康太 (静かに) いつものをお願いします。
マスターは、いつものようにコーヒーを淹れる。康太は、今回は**「不幸」**の内容ではなく、マスターの真意を知ろうと、目を離さない。
レシートが差し出される。もちろん、日付は三日後。康太は、心臓を強く打つ。
メモ書き 『大切なものを、失う。』
康太 (メモを握りしめ、顔面蒼白になる) これは……。一体、何を失うんだ?財布か?仕事か?それとも……。
康太は、マスターに詰め寄ろうとするが、マスターは首を振る。
マスター (静かに) メモはそれだけです。私は、具体的なものは書きません。
康太 (パニックになり、何度もマスターに懇願する) 教えてください、マスター!何を守ればいいんですか!?靴ひもや傘と違って、これは取り返しがつかない!
マスター (初めて、少し強い口調で) あなたが、毎日スマホばかり見て、カフェで過ごすこの5分間を無駄にしていること。それが、あなたが今、本当に失っているものです。
康太はハッとする。自分の手には、レシートではなく、つい先ほど確認したスマートフォンが握られていた。
マスター (目を伏せて) 未来に怯えるあまり、今日のコーヒーの香りも、隣の席で笑っている人の声も、何も感じていないでしょう。時間を失う。それが、最も恐ろしい不幸です。
康太は、マスターの言葉に深い衝撃を受ける。そして、初めてカフェの窓の外を見る。忙しなく人々が通り過ぎる中、彼らもまた、未来に急ぐように、今を見失っているように見えた。
康太 (レシートを、優しく折りたたむ) (心の中で) 俺が失っていたのは、未来への不安で塗りつぶされた、**「今」**という時間だった。









三日後のコーヒー 第5話  今日のコーヒー

朝。カフェ**「Café Re-Start」。康太はカウンターに座っているが、今日はスマホを見ていない。周囲の光や音**に、初めて注意を払っている。
康太 (穏やかな表情で) いつものをお願いします。
マスター (コーヒーを淹れながら、静かに) 今日のあなたには、少し違うものを。
マスターが差し出したのは、いつものブレンドとは違う、特別な豆で淹れられた深煎りのコーヒー。そして、レシート。
康太は、レシートを受け取り、日付を確認する。
康太 (目を見開き、驚きと感動で) あ……。
日付は、三日後ではない。今日の、「9月29日」になっている。
メモ書き 『Good Luck.』 (頑張って。)
康太 (レシートを強く握りしめ、マスターを見つめる) マスター……。もう、未来のメッセージは終わりですか?
マスター (柔らかな、しかしどこか悲しい微笑みを浮かべる) あなたには、もう必要ないでしょう。あなたは、未来に怯えるあまり、今日という日を「通過点」にしてしまっていた。
マスターは、以前見せた古い写真を、カウンターの隅にそっと置く。
マスター (写真の女性を見つめながら) 私もかつて、未来に怯え、隣にいた彼女の言葉を聞くことすら忘れた。全てを失ってから、「今」の価値を知ったんです。
康太 (写真の女性の悲しい目と、マスターの今の静かな目を見て、悟る) (小声で) ありがとうございました、マスター。
康太は立ち上がり、席を離れる。
康太 (店を出る直前、振り返り) マスター!このカフェの名前、「Café Re-Start」って、本当に「やり直す」っていう意味だったんですね。
マスター (優しく頷く) ええ。「今から、ここから」という意味ですよ。
康太は、深煎りコーヒーの苦みと、未来への希望を胸に、晴れやかな表情で店を出る。
マスターは、康太が残していった今日のレシートを拾い上げ、静かに微笑んで、コーヒーカップを拭き続ける。



「未来を恐れるな。人生は、今日という日を積み重ねたものだ。」