「……ここだと思った」
それだけ言って、隣に腰を下ろした。
少しの沈黙。
風の音だけが、二人の間を通り抜ける。
「どうして来たの?」
ぽつり、と落ちた言葉。
責めるでもなく、ただ静かに。
「私、あなたを忘れるためにここに来たのに」
「来ちゃったら……忘れられないじゃない」
胸の奥が、鈍く痛む。
わかっていた。
わかっていて、来た。
「……ごめん」
それしか言えなかった。
エリシアは小さく笑った。
泣きそうな、笑い方だった。
「ずるいわね」
「謝るなら、来なければよかったのに」
返す言葉が、見つからない。
目を逸らした先で、月光が床に落ちている。
白く、冷たい光。
(ここで、何も言わなければいい)
そうすればいい。
このまま、何も変えなければ。
エリシアはきっと、正しい道を選ぶ。
王女として、ふさわしい相手と。
きっと、幸せになる。
それが、正しい選択だ。
――でも。
隣にいる温もりが、近すぎた。
「……ゼン」
名前を呼ばれる。
昔と変わらない呼び方で。
心臓が、跳ねる。
時間が、止まったようだった。
ゼンは、息を飲む。
言うな。
なにも、言うな。
そう思うのに。
「私、レオンとの縁談、受けようと思うの」
ズキン、と胸が痛む。
「私は王女だから。王女として、ちゃんと選ばなきゃいけないの。わかってる」
胸の奥を、抉られる。
「だから、忘れようと思ったの」
ぽつり、と落ちる声。
「あなたを」
わかっていた。
それでも、その言葉を本人の口から聞くのは――
胸を抉られるように痛かった。
ゼンは、伸ばしかけた手を、ぐっと握りしめる。
「俺は……っ」
言葉が詰まる。
言ってはいけない言葉を、必死に飲み込む。
本当は、引き留めたかった。
今すぐにでも、抱き締めたいのに。
「俺は――」
言いかけて、止まる。
立場。
責任。
何も言わないゼンを横目に、エリシアは寂しそうに瞳を揺らした。
「……なにも、言ってくれないのね」
切なそうに、微笑む。
その顔を見た瞬間、
ゼンの中で抑えていた何かが、崩れた。
「……エリシア」
呼んでいた。
“様”をつけずに。
はっとしたように、エリシアの目が見開かれる。
「……エリシア」
もう一度、呼ぶ。
逃げ場なんて、もうなかった。
名前を呼んだきり、言葉を続けられない。
ただ、エリシアの目をまっすぐ見つめる。
言葉を探すように。
続く、静寂。
ただ見つめ合う時間。
「……ずるい」
最初に口を開いたのは、エリシアだった。
震える声。
「そんな顔、されたら……」
こぼれた涙が、頬を伝う。
その顔に、胸が締め付けられる。
次の瞬間。
エリシアが、ゼンにしがみついた。
「……好きよ」
「ずっと、ゼンだけが好き。昔も、今も……」
そして――
「選んでいいのなら……私は……っ、あなたを選びたい……っ」
ゼンの瞳が、揺れた。
――もう、とっくに限界だった。
何度も触れたくて、
それでも、触れてはいけないと抑えてきた。
何度も、伸ばしかけた手を、引き戻してきた。
その手を、今――
そっと、伸ばす。
壊れ物に触れるように。
慎重に。
優しく、エリシアの頬に触れた。
その瞬間――
風が、そっと吹き抜けた。
――あの頃と、同じ風が。


