執務室を出たあと、ゼンの足は止まらなかった。
ただ、一人になりたかった。
部屋に向かうでも、屋敷へ帰るでもなく――
ただ、夜風に当たりたかった。
気づけば、人気のない回廊に出ていた。
窓の外には、夜の庭。
風が、静かに木々を揺らしている。
そこで、ようやく足が止まった。
「……はぁ」
小さく、息を吐く。
脳裏に浮かぶのは、先ほどの国王の言葉。
善意だと、わかっている。
余計な思惑など何一つないことも。
――だからこそ、辛かった。
今、自分が宮廷護衛隊を離れれば、
それはそのまま、エリシアとの距離が決定的に開くということだ。
壁に手をつく。
指先に、力が入らない。
……昔は、ただ王女として。
妹のような存在として、気にかけていただけだった。
それなのに、いつの間にか――
かけがえのない、大切な存在になっていた。
あの笑顔に、会いたいと思う。
声が、聞きたいと。
そこまで考えて、口の端が歪む。
自嘲だった。
本当は、わかっている。
何を選ぶべきか。
何を優先するべきか。
考えるまでもない。
この国を守ること。
そのために剣を取り、
そのためにここまで来た。
今さら、それを手放す理由などない。
エリシアのことが大事だ。
幸せになってほしいと、心から願ってきた。
自分よりも、相応しい相手と。
身分も立場も釣り合う誰かと。
――そう思うのに。
浮かぶのは、あの顔ばかりだった。
笑った顔。
拗ねた顔。
泣きそうな顔。
そのすべてを。
自分だけに向けてほしいと。
そんな、醜い感情が胸を締めつける。
「……っ」
息が詰まる。
あの時、目が合った気がした。
エリシアの隣に立つ男。
その姿を思い出して、胸が強く締めつけられる。
あの手を取るのは、自分ではない。
触れることすら、許されない。
「……兄様!」
不意に、鋭い声が空気を裂いた。
振り返ると、息を切らしたリゼが駆け寄ってくる。
「エリシアが、いなくなっちゃったの!」
「さっき、執務室の前にいたって聞いたんだけど、そのあと部屋にも戻ってなくて……!」
ゼンの顔色が変わる。
――まさか。
先ほどの話を、聞いていたのか。
目を閉じる。
「……エリシア」
無意識に、名が零れた。
はっとして、息を止める。
リゼには聞こえていない。
それでも、胸の奥に、重い何かが残る。
“様”をつけなかった。
ただ、それだけのことなのに。
それだけのことが――
こんなにも重い。
ゆっくりと、拳をほどく。
(……考えるな)
ここで終わらせればいい。
何も言わず、何もしなければ、
すべてはこのまま収まる。
それが、一番いい。
……なのに。
ゼンは、ゆっくりと顔を上げた。
――止まれなかった。


