広間のざわめきが、やけに遠く聞こえる。
笑い声も、音楽も、
すべてが薄い膜の向こう側みたいにぼやけていた。
「――ゼン殿?」
呼びかけられて、はっとする。
目の前にはフラン侯爵と、その夫人。
何かを話していたはずなのに、
内容がまるで頭に入っていない。
「……失礼しました」
いつものように微笑む。
崩れない仮面。
それなのに、
意識だけが、別の場所にあった。
――エリシア。
名を呼ぶことはしない。
できるはずもない。
視線だけが、無意識に、その姿を追っていた。
王族席の近く。
両親に囲まれて、
そして、その隣に立つ男。
(……あれが、縁談の相手か)
一目でわかる。
立ち居振る舞い。
無駄のない距離感。
――隙がない。
「……いい男だな」
ぽつりと、誰にも聞こえない声が落ちる。
皮肉でもなんでもない。
事実だった。
ああいう男が、
エリシアの隣に立つべきだ。
身分も、
立場も、
何もかもが釣り合っている。
(俺とは違う)
その考えは、あまりにも自然に浮かんだ。
違和感すらない。
だからこそ――
厄介だった。
ふいに、エリシアがこちらを見る。
一瞬だけ、視線が重なる。
その瞳に映ったのが、自分だったのか、
それとも――
確かめる前に、ゼンは視線を逸らした。
見てはいけないものから、逃げるように。
(……やめろ)
心の奥で、誰かが制止する。
それ以上、踏み込めば、戻れなくなる。
「ゼン殿、どうかなさいましたか?」
再び呼ばれる。
今度はちゃんと、意識を戻す。
「申し訳ありません。少し考え事を」
「いえ、それより――あちらをご覧に?」
フラン侯爵の言葉に、視線を向ける。
その先。
エリシアが、両親と、そしてあの男と並んでいる。
嬉しそうな王妃。
満足げな国王。
そして、
静かに微笑むエリシア。
――完璧な光景だった。
誰が見ても、祝福すべき場面。
非の打ちどころなんて、どこにもない。
(これで、いい)
そうだ。
これでいい。
これが、正しい。
エリシアは、
ああして笑っていればいい。
それを守るのが、自分の役目だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
(……それで、いいはずだろ)
胸の奥で、何かが軋む。
押し込める。
見なかったことにするみたいに。
その時。
ふと、
エリシアの唇が動いた。
距離があるから、声は聞こえない。
けれど、その形だけは、はっきりと見えた。
――「はい」
その一言で、
すべてが決まったのだと理解する。
縁談が進む。
あの男が、エリシアの隣に立つ。
(……そうか)
静かに、息を吐く。
驚きは、なかった。
覚悟していたことだから。
ずっと前から、わかっていたことだから。
「エリシア様も17歳か。本当に立派に、美しくなられた。ゼン殿の後ろに隠れていた頃が懐かしいですな。」
「本当に。月日が経つのは早いものです。」
フラン公爵夫妻のそんな会話を聞きながら。
「……そうですね。」
微笑む。
完璧に。
何一つ、乱さずに。
けれど、
その奥で。
ほんの一瞬だけ、
掴み損ねた何かに手を伸ばすように、
指先が、わずかに動いた。
――触れることは、ないと知りながら。


