ーー
「ねえ、リゼ。本当に大丈夫なの?」
不安そうに裾を握るまだ幼いエリシアに、私は胸を張ってみせた。
「大丈夫よ。ちょっと外を見るだけだもの。すぐ戻るわ」
本当は、いけないことだとわかっていた。
王女を護衛もつけずに城の外へ連れ出すなんて。
それでも――見せてあげたかったのだ。
高い壁の向こうに広がる、自由な世界を。
「ほら、見て。あれが市場よ」
「わあ……!」
エリシアの顔がぱっと輝く。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。
(連れてきてよかった)
そう思った、その時だった。
「――おい、あの紋章……」
低い声。
振り返ると、数人の男たちがこちらを見ていた。
視線は、まっすぐエリシアへ。
ローブの裾に入った、王家の紋章。
その意味に気付いた瞬間、背筋が冷えた。
「王家の子だ」
空気が変わる。
剣を抜く音。
(守らなきゃ)
そう思った。
そう、思ったのに――
足が、動かなかった。
逃げなきゃいけないのに、膝が震えて、前に出ない。
初めて向けられる“本物の殺気”。
息が詰まる。
頭ではわかっているのに、身体が言うことをきかない。
「リゼ……?」
エリシアの声。
振り向く。
その手を、掴もうとした。
けれど。
「きゃっ――!」
腕を引き剥がされる。
「リゼ!!」
名前を呼ばれる。
必死に手を伸ばす。
でも、届かない。
「クソ!エリシアを離せよ!」
幼いクロードが男たちの服を掴む。
必死に、しがみつく。
指が白くなるほど力を込めて、それでも離されまいと食らいつく。
でも――
「ガキはどいてろ!」
簡単に突き飛ばされ、地面に叩きつけられる。
それでも、立ち上がろうとする。
手を伸ばす。
――届くはずもなかった。
私もクロードも、ただエリシアの名前を呼ぶことしかできない。
ただ、目の前で連れて行かれるのを――見ていることしかできなかった。
その時。
「――離せ」
その声が落ちた瞬間、
空気が変わった。
張り詰めていた殺気が、逆に凍りつく。
一瞬の静寂。
次の瞬間――
風が、走った。
視界の端で、影が一つ、閃く。
一瞬だった。
何が起きたのか理解する間もなく、
気付いたときには、男たちは地に伏していた。
その中心に立っていたのは――
「兄様……」
ゼンだった。
息一つ乱さず、剣を収める。
その腕の中には、震えるエリシア。
「もう大丈夫だ」
そう言って、優しく頭を撫でている。
その光景を、私はただ見ていることしかできなかった。
その日の夜。
重たい空気の中、父上は静かに言った。
「守れないなら、前に出るな」
その言葉は、叱責ではなかった。
ただの――事実だった。
だからこそ、逃げ場がなかった。
だからこそ、何も言い返せなかった。
言えるはずがなかった。
私は、守れなかったのだから。
あの時の光景は、今でも焼き付いている。
伸ばした手。
届かなかった距離。
名前を呼ぶ声。
そして――
何もできなかった、自分。
(私は、弱かった。)
違う。
(今も、弱い)
だから――
強くならなきゃいけない。
誰よりも。
もう二度と、あんな思いはしたくないから。
もう二度と、大切な人を――
失わないために。
あの日、同じ場にいた少年は、無言で拳を握り締めていた。
クロード。
彼もまた、何もできなかった一人だ。
クロードの視線の先には、ゼンの背中。
その目に宿るものを、あの時の私はまだ知らなかった。
でも、今なら、わかる。
あの日、同じ風の中で。
私たちは、それぞれ違うものを背負ったのだ。
守りたい、強くなりたい、それぞれがそれぞれの想いを背負って、私たちは大人になった。
"またみんなで笑い合える日が来るといいな。"
エリシアの言葉を思い出す。
今なら、素直に言えるのに。
――あの頃には、もう戻れないのに。


