密かに… そっと…

「行ってらっしゃい」も、「頑張ってね」も言えないまま、詩音くんは合宿に行ってしまった。

私はただ、変わらない生活を送るだけ。

でも――

詩音くんの合宿、三日目。

ランチタイムが落ち着いた頃、店長のプライベート用のスマホが着信を告げた。

「はい。どうした?」

一瞬の沈黙。

「……えっ? 詩音が?」

(詩音くん……?)

その名前が出た瞬間、周りの空気が一気に張り詰めた気がした。

胸の奥がざわついて、心臓の音が耳の奥で大きく響く。

「わかった。気をつけて。……頼んだ」

低く押さえた声でそう言って、店長は電話を切った。

「あ、あの……」

気づけば、声をかけていた。

「今、詩音くんって…。何かあったんですか?」

震える声は、途中で掠れてしまう。

「うーん。どうやらリバウンドの練習中、他の人の肘が顔に当たった拍子に倒れて、脳震盪を起こしたらしいんだ。頭を打ったから、一応病院で検査してもらうことになったって連絡だったよ。

今、妻が病院に向かってる。詩音は意識もあって話もできてるみたいだから、そんなに深刻ではなさそうだけどね。

風香ちゃん、驚かせてしまったね」

「そっか……。何でもないといいですね……」

店長にそう伝えて、平静を装ってみる。

でも――

(頭の検査……)

(詩音くん……)

考えないようにしても、同じことばかりが頭の中を巡る。

気づけば、自分の部屋にいた。

どうやって帰ってきたのか、ほとんど覚えていない。

靴を脱いだ記憶も、鍵を開けた記憶も、曖昧で。

結局バイト中に、詩音くんのお母さんから連絡は来なかった。

今どうなっているのかも、わからない。

時間だけが過ぎていくのに、

私だけが、そこに取り残されたみたいで。

胸の奥に居座った不安は、

少しも、離れてくれなかった。