休憩室を出た、そのタイミングで――
チリン、チリーン。
ドアベルが軽やかに鳴った。
「いらっしゃいませー」
顔を上げると、見慣れた常連さん。
「あれ、今日は風香ちゃんのほうが早いね」
そう言って、いつもの席に腰を下ろす。
店長のコーヒーを飲みに来たのだ。
さっきまでの慌ただしさが嘘みたいに、
店内にゆったりとした時間が戻っていた。
ここからは、いつもの光景――のはずだった。
張り詰めていた緊張がほどけ、
ようやく肩の力が抜ける。
チリン、チリーン。
……バンッ。
ドアが勢いよく開き、思わず顔を向けた。
ハァ、ハァ、ハァ……
肩で大きく息をしている詩音くんが、
膝に手をつきながら呼吸を整えている。
「なんだ、詩音。そんなに慌てて」
店長が、驚いたように息子に声をかけた。
顔を上げた詩音くんと、目が合った。
ドキン、と小さく胸が跳ねる。
「いや、なんでもない……」
そう言って、すぐに視線を逸らすと、そのままバックヤードへ消えていった。
……走って来たのかな。
まだ少しだけ、息が荒かった気がする。
テーブルを拭きながら、そっと入口の方を気にする。
すると――
バックヤードから現れた詩音くんは、ワイシャツの袖を無造作にまくり、黒いエプロンを身につけていた。
(エプロン……!)
一瞬、思考が止まる。
(なにそれ、反則……)
倒れそうになるのを、足の指にぎゅっと力を込めてこらえた。
いつもは閉店間際、市販のエプロンをつけて皿洗いを手伝う姿しか見たことがなかった。
だから――
昼の光の中で、ワイシャツに黒いカフェエプロンをつけた詩音くんは、どこか新鮮で。
不意打ちみたいなその姿に、危うくノックアウトされそうになる。
「詩音、支度できたか」
店長の声に、はっとする。
「それじゃあ風香ちゃん、頼んだよ」
分かっていたはずなのに。
(……うん、知ってた。知ってたけど)
改めてそう言われると、急に現実味が増す。
私は小さく息を吸い込んだ。
「じゃあ、まずはホールの流れから説明するね」
声が、少しだけ上ずった。
詩音くんは、静かに頷いた。
私は夕飯時の忙しくなる前までに、一通りの動きを説明する。
オーダーの取り方。
配膳の順番。
片付けのタイミング。
レジ。
そのあとは、一緒にグラスを下げ、テーブルを拭き、
細かな動きを何度も確認した。
時間は、驚くほどあっという間に過ぎていく。
――17:00。
「風香ちゃん、ありがとう。もう上がっていいよ」
店長がそう言ってくれたけれど。
大変なのは、ここからだ。
私は一瞬だけ詩音くんを見る。
「詩音くん、まだ一人だと大変だと思うんで……今日はもう少し一緒にいてもいいですか?」
初めての夕飯時を、いきなり一人で回すのはきついはずだ。
店長は少し驚いた顔をした。
「風香ちゃんだって、今日は初ランチで大変だったでしょう。疲れてるんじゃない?」
「いえ、大丈夫です。体力には自信あるんで」
そう言って、どん、と胸を叩いてみせる。
自分でもちょっと強がりだと分かっているけど。
「そう? それは本当に助かるよ。じゃあ十五分休憩取って。好きな飲み物持っていっていいから」
そう言って、店長はチョコレートケーキまで持たせてくれた。
思わず、笑ってしまう。
お昼はコーヒーゼリーにアイス。
それだけでも十分なのに、さらにチョコレートケーキまで。
今日はご褒美が多すぎる。
思わず、頬がゆるむ。
そして――
詩音くんと一緒。
それだけで、もう特別だ。
なんて素敵な一日なんだろう。
フォークをゆっくりと口に運びながら、
その甘さを、かみしめるみたいに味わった。
フロアに戻ると、詩音くんは黙々と仕事をこなしていた。
普段から店に出入りしているだけあって、飲み込みが早い。
気づけば、ほとんど一人でも回せそうなくらいだ。
再びお客さんが増え、それぞれ対応に追われたけれど――
大きなトラブルもなく、一日目は無事に終わった。
「お、終わった……」
詩音くんは椅子にどさっと腰を下ろし、両手を投げ出して天井を仰ぐ。
その姿に、思わず笑ってしまう。
「三波さん、毎日これを一人でやってるのか……。すごいな……」
ぽつり、と本音みたいにこぼす。
そんな嬉しいことを、さらっと言うなんて。
「いや、詩音くんもすごいよ。とても初めてとは思えない」
本心だった。
「風香ちゃん、お疲れさま。今日はごめんね。ありがとう。疲れたでしょう。明日もあるし、帰ってゆっくり休んで」
「はい。ありがとうございます。それじゃあ、着替えてきますね」
今日は制服じゃなくて、私服。
詩音くんに制服以外の姿を見られるのは、これが初めてだ。
(変じゃないよね……?)
休憩室の姿見の前で、何度も前髪を直す。
スカートの丈も、シャツのしわも確認してから、そっとフロアへ戻った。
詩音くんは、さっきまで天井を見上げていたのに、
私の気配に気づくと、視線だけこちらへ向ける。
そして、がばっと起き上がった。
「あっ……」
何か言いかけて、口をぱくぱくと動かす。
でも、続きは出てこない。
「それじゃ、気をつけてね」
店長の声に背中を押される。
「また明日」
小さく手を振って、店を出た。
(……何か、言おうとしてたのかな)
外はもう暗いのに、まだ夏の熱が残っている。
湿気を含んだ空気が、行き場をなくしたみたいに、その場にとどまっていた。
胸の奥も、なんだか同じだった。
チリン、チリーン。
ドアベルが軽やかに鳴った。
「いらっしゃいませー」
顔を上げると、見慣れた常連さん。
「あれ、今日は風香ちゃんのほうが早いね」
そう言って、いつもの席に腰を下ろす。
店長のコーヒーを飲みに来たのだ。
さっきまでの慌ただしさが嘘みたいに、
店内にゆったりとした時間が戻っていた。
ここからは、いつもの光景――のはずだった。
張り詰めていた緊張がほどけ、
ようやく肩の力が抜ける。
チリン、チリーン。
……バンッ。
ドアが勢いよく開き、思わず顔を向けた。
ハァ、ハァ、ハァ……
肩で大きく息をしている詩音くんが、
膝に手をつきながら呼吸を整えている。
「なんだ、詩音。そんなに慌てて」
店長が、驚いたように息子に声をかけた。
顔を上げた詩音くんと、目が合った。
ドキン、と小さく胸が跳ねる。
「いや、なんでもない……」
そう言って、すぐに視線を逸らすと、そのままバックヤードへ消えていった。
……走って来たのかな。
まだ少しだけ、息が荒かった気がする。
テーブルを拭きながら、そっと入口の方を気にする。
すると――
バックヤードから現れた詩音くんは、ワイシャツの袖を無造作にまくり、黒いエプロンを身につけていた。
(エプロン……!)
一瞬、思考が止まる。
(なにそれ、反則……)
倒れそうになるのを、足の指にぎゅっと力を込めてこらえた。
いつもは閉店間際、市販のエプロンをつけて皿洗いを手伝う姿しか見たことがなかった。
だから――
昼の光の中で、ワイシャツに黒いカフェエプロンをつけた詩音くんは、どこか新鮮で。
不意打ちみたいなその姿に、危うくノックアウトされそうになる。
「詩音、支度できたか」
店長の声に、はっとする。
「それじゃあ風香ちゃん、頼んだよ」
分かっていたはずなのに。
(……うん、知ってた。知ってたけど)
改めてそう言われると、急に現実味が増す。
私は小さく息を吸い込んだ。
「じゃあ、まずはホールの流れから説明するね」
声が、少しだけ上ずった。
詩音くんは、静かに頷いた。
私は夕飯時の忙しくなる前までに、一通りの動きを説明する。
オーダーの取り方。
配膳の順番。
片付けのタイミング。
レジ。
そのあとは、一緒にグラスを下げ、テーブルを拭き、
細かな動きを何度も確認した。
時間は、驚くほどあっという間に過ぎていく。
――17:00。
「風香ちゃん、ありがとう。もう上がっていいよ」
店長がそう言ってくれたけれど。
大変なのは、ここからだ。
私は一瞬だけ詩音くんを見る。
「詩音くん、まだ一人だと大変だと思うんで……今日はもう少し一緒にいてもいいですか?」
初めての夕飯時を、いきなり一人で回すのはきついはずだ。
店長は少し驚いた顔をした。
「風香ちゃんだって、今日は初ランチで大変だったでしょう。疲れてるんじゃない?」
「いえ、大丈夫です。体力には自信あるんで」
そう言って、どん、と胸を叩いてみせる。
自分でもちょっと強がりだと分かっているけど。
「そう? それは本当に助かるよ。じゃあ十五分休憩取って。好きな飲み物持っていっていいから」
そう言って、店長はチョコレートケーキまで持たせてくれた。
思わず、笑ってしまう。
お昼はコーヒーゼリーにアイス。
それだけでも十分なのに、さらにチョコレートケーキまで。
今日はご褒美が多すぎる。
思わず、頬がゆるむ。
そして――
詩音くんと一緒。
それだけで、もう特別だ。
なんて素敵な一日なんだろう。
フォークをゆっくりと口に運びながら、
その甘さを、かみしめるみたいに味わった。
フロアに戻ると、詩音くんは黙々と仕事をこなしていた。
普段から店に出入りしているだけあって、飲み込みが早い。
気づけば、ほとんど一人でも回せそうなくらいだ。
再びお客さんが増え、それぞれ対応に追われたけれど――
大きなトラブルもなく、一日目は無事に終わった。
「お、終わった……」
詩音くんは椅子にどさっと腰を下ろし、両手を投げ出して天井を仰ぐ。
その姿に、思わず笑ってしまう。
「三波さん、毎日これを一人でやってるのか……。すごいな……」
ぽつり、と本音みたいにこぼす。
そんな嬉しいことを、さらっと言うなんて。
「いや、詩音くんもすごいよ。とても初めてとは思えない」
本心だった。
「風香ちゃん、お疲れさま。今日はごめんね。ありがとう。疲れたでしょう。明日もあるし、帰ってゆっくり休んで」
「はい。ありがとうございます。それじゃあ、着替えてきますね」
今日は制服じゃなくて、私服。
詩音くんに制服以外の姿を見られるのは、これが初めてだ。
(変じゃないよね……?)
休憩室の姿見の前で、何度も前髪を直す。
スカートの丈も、シャツのしわも確認してから、そっとフロアへ戻った。
詩音くんは、さっきまで天井を見上げていたのに、
私の気配に気づくと、視線だけこちらへ向ける。
そして、がばっと起き上がった。
「あっ……」
何か言いかけて、口をぱくぱくと動かす。
でも、続きは出てこない。
「それじゃ、気をつけてね」
店長の声に背中を押される。
「また明日」
小さく手を振って、店を出た。
(……何か、言おうとしてたのかな)
外はもう暗いのに、まだ夏の熱が残っている。
湿気を含んだ空気が、行き場をなくしたみたいに、その場にとどまっていた。
胸の奥も、なんだか同じだった。


