密かに… そっと…

翌朝。

目覚ましが鳴る前に、ぱちりと目が覚めた。

(よし。今日からバイト、頑張るぞ)

鏡の前に立ち、前髪を整える。
落ち着こうと何度も深呼吸。

(詩音くんの教育係。きっと、たくさん話せるよね)

胸の奥がそわそわする。
ウキウキも、ワクワクも、止まらない。

気づけば、鏡の中の自分がにやけていた。

「……だめだめ」

頬をぺちんと叩く。

ちゃんと先輩らしくしなきゃ。

でも。

口元は、どうしても緩んだままだった。

喫茶オークまで、ほとんど小走りでたどり着く。
深呼吸をひとつして、ドアノブに手をかけた。

(そういえば……ランチに入るの、今日が初めてだ)

胸がきゅっと鳴る。

(きっと忙しいよね。浮かれてないで、ちゃんと気を引き締めなきゃ)

よし、と小さく気合いを入れて、扉を押した。

「おはようございます」

「おはよう、風香ちゃん。今日からランチ、よろしくね」

カウンターの奥で、店長がにこやかに微笑む。
店内には、淹れたてのコーヒーの落ち着いた香りが広がっていた。

ぐるりと見回す。

いつもの常連さんの姿が、ひとりもない。

(ここにいる人たちも、きっと朝の常連さんなんだろうな)

バックヤードに入り、エプロンの紐をきゅっと結んだ。

よし。

気持ちも、きゅっと結び直す。

店内に戻ると、もう一度そっと見渡す。

(午後の人たちより、なんとなく上品に見える……のは、まだ知らない顔だからかな)

自分でも可笑しくなって、小さく息を吐く。

夕方と特に変わらない作業をこなしていると、
正午が近づくにつれ、店内は徐々に混み始めた。

気づけば、入口には何組ものお客さんが順番を待っている。

ランチタイムだけあって、注文も一気に増える。

ハンバーグにパスタ。
そこへサラダの小鉢をトレイに乗せる作業も加わる。

いつもより、手数が多い。

(こ、これは……なかなか……)

広くはない店内。
けれど、一人で回すには、かなりハードだ。

注文を取り、
セットを組み、
料理を運び、
空いた皿を下げ、
レジでお会計をし、
次のお客さんを席へ案内する。

息をつく暇もない。

それでもなんとかピークを乗り越え、
十四時を回るころには、ようやく店内も落ち着きを取り戻した。

「風香ちゃん、お疲れさま。遅くなったけど休憩入って。何が食べたい?」

店長の声が、いつもより優しく聞こえる。

正直、もうくたくただった。
食べる気力もあまりない。

でも、心配をかけるのも違う気がして。

「ナポリタン、お願いします」

そう伝えて、奥へ入った。

休憩室の椅子にどかっと腰を下ろし、
そのまま机に突っ伏す。

「つ、疲れたぁ……」

大きく息を吐く。

(朱美さんは、いつも一人でこれを回してたんだ)

改めて、そのすごさを思い知る。

ほどなくして、店長がトレイを持って入ってきた。

ナポリタンにサラダ。
オレンジジュースと、ソフトクリームののったコーヒーゼリー。

思わず顔を上げる。

「初めてのランチは大変だったでしょう。でも、すごいね、風香ちゃん。あれを一人でこなしてくれたんだから。ゆっくり休んで」

店長がにこりと笑う。

胸の奥が、じんわりあたたかくなる。

さっきまでなかったはずの食欲が、
ナポリタンの香りにふわっと呼び戻された。

フォークにくるくると巻きつけて、ひと口。

「んー……おいしい」

思わず目を閉じる。

いつもの倍、いや、それ以上に美味しく感じた。