密かに… そっと…

「キャー、春くーん、ナイッシュー」

今日も体育館は、黄色い声で埋め尽くされている。
春先輩。
かなりのビジュアルの持ち主で、大会ともなれば、他校の女子高生からも差し入れが届く、我が校のエースだ。

私もその歓声の中に紛れる、どこにでもいる女子高生だ。

ただ、私が見ているのは、
みんなの心を掴んで離さない春先輩じゃない。
コートの反対側で、クルクルと順番を変えながらシュート練習をしている一年生。
友達に「ナイッシュー」と声をかけている眼鏡くん。

たくさんの人とは違う。
私だけ。
一人だけ。

顔を上げて時計を確認すると、もうバイトの時間だった。
(今日はここまでか)
最後に、休憩中、水筒を傾けている詩音くんの姿を目に留めて、体育館を後にした。

「ただいまー」

「おかえり、風香(ふうか)ちゃん。今日もよろしくね」

『喫茶 オーク』
森の中みたいな、木のぬくもりが残るお店で、私は去年からここでバイトをしている。

店主は楢崎さん。
「楢の字から『オーク』ってつけたんだ」って教えてくれた。
あと、「楢の木ってどんぐりなんだよ」って。

この、どこか懐かしくて、優しいコーヒーの香りが漂っている空間が、私は大好きだ。

「着替えてきまーす」

そう言って、制服のブラウスはそのままに、黒のパンツと黒のエプロンを身につける。
黒くて長いストレートの髪をまとめてお団子にして、手を洗い、フロアに入った。

店内には常連さんが多い。
みんな「風香ちゃん、おかえり」って声をかけてくれる。
家族が増えたみたいで、ちょっとくすぐったい。
きっと、店長の人柄に惹かれて集まってきているんだと思う。

地域密着の、昔からある喫茶店。
常連客の憩いの場だったこの店も、SNSに
「喫茶 オークのナポリタンが最高!」
なんて載ったせいで、客足が増えてしまったらしい。

急募の貼り紙を出そうとしていたタイミングで、私はたまたま通りかかり、
「それ、やらせてください」
と立候補して、今に至る。

「さ、もう少ししたらまた混み出すと思うから。風香ちゃん、今のうちになにか食べておく?」

そう言って、店長はサンドウィッチを出してくれた。

常連さんに混ざって席に座ると、サンドウィッチを片手に宿題を進める。
「わからないところあったら、おじさんに聞いていいんだよ。教えてあげるからさ」
そんなふうに気軽に声をかけられるのも、もうすっかり日常で、店の中にはいつもみたいに、あったかい空気が流れていた。

「マスター、お会計」

常連さんが立ち上がる。
チラッと私の手元を見て、
「それにしても難しそうな問題だねぇ。さすが頭のいい高校だ」
とつぶやく。

「そういえば、マスターのところの息子さんも風香ちゃんと同じ高校なんだよねぇ。
なんだか、この店にいると俺も頭が良くなった気分だよ」
ハハハッと笑い声が響く。

「そうなんだよ。
風香ちゃんは、うちの詩音(しおん)と学校で話したりしないのかい?」

ドキッ。心臓が跳ねる。
平静を装って答える。
「いえ、学年が違うとすれ違うこともあんまりないですよ」

体育館で私の視線の先にいたのは、詩音くん。

偶然にも、この店長の息子さんだった。

出会った頃はまだ中学生だった彼も、今年、同じ高校に入学してきた。
お店でチラッと見かけるくらいだった男の子。
今では体育館に行けば、毎日見ることのできる男の子。

それなのに、私たちの距離感は、まるで変わらない。

チリンチリーン

お客さんが来たことを告げるベルが鳴る。

(さて、今日も忙しくなるかな…)

夕飯時。さっきとは違う、食欲をそそるニンニクの匂いが店内に広がる。

お客さんにお水を出し、注文を聞き、慣れた手つきで料理を運ぶ。
忙しくなったけれど、店長の料理をたくさんの人に食べてもらえるのは、やっぱり嬉しい。

狭いフロアを、踊るように働く。

20時を過ぎる頃には、落ち着きを取り戻していた。

「今日も大変だったね。ひと段落したから、洗い物を手伝ってくれるかな」

「はーい」

そう言ったと同時に、チリンチリーン。
ドアが開く。

「いらっしゃいませー」

振り返ると、そこには詩音くんが立っていた。

「ただいま」

小さな声でそう言うと、店長に「手伝うよ」と言いながら、ブレザーを脱ぎ、エプロンをつける。

(エプロン姿…めちゃくちゃ似合う…)

あまりのかっこよさに、しばらく思考が止まる。いつものことだ。

詩音くんは腕まくりをしながら洗い場に向かう。

「風香ちゃん、詩音が来たから洗い場は大丈夫。フロアの片付けをお願いできるかな?」

「はーい」

元気に返事を返すけど、内心では、
“一緒に洗い場に並んで立ちたかったな”
と、少し残念に思った。

こんな風に、同じ空間にいても、詩音くんと話すタイミングはほとんどない。
あったとしても、「はい」「いいえ」の業務連絡くらい。

詩音くんは、近くにいるのに、どうしても遠い。