ただいまの先に〜帰る場所〜



三人が病室を出ていった後。

部屋には、妙な静けさだけが残った。

絵茉は気まずそうに視線を逸らし、琥太郎も、何を話せばいいのかわからないまま黙り込む。

遠くで、ナースステーションの話し声が聞こえた。


「……その怪我、大丈夫なの」

先に口を開いたのは、絵茉だった。

「ん? ああ、こんなの慣れてる」

「慣れてるって何よ」

呆れたように笑う。

「さっき病室にいた、目つき悪い方。あいつ昔から喧嘩っぱやくてな」

「……は?」

「施設の頃も、俺らが絡まれるとすぐ前出るから、職員にめちゃくちゃ怒られてた」

絵茉が思わず吹き出す。

「なにそれ」

「今は医者やってんのに、中身ほとんど変わってねぇ」

小さく笑う琥太郎を見て、絵茉の表情も少しだけ和らぐ。

沈黙。

時計の秒針だけが、静かな病室に響く。

絵茉は、しばらく迷うように視線を落として——


「……私ね」

ぽつり、と口を開いた。

「ずっと夢だと思ってたんだけど、うっすらと、誰かのことをお兄ちゃんって呼んでたの、覚えてるの」

「優しい男の子がまだ小さな私の手を引いて、優しい声で、大丈夫だよって、言ってくれて」

「でも、顔は思い出せなくて……誰だったのかも」

琥太郎の、握りしめた拳に力が入る。


「……それとね」

絵茉が、間を置いて続ける。

「……小さい頃、一回だけ見たことあるの」

「母さんのパスケースの中に、男の子の写真が入ってて」

少しだけ笑う。

「誰?って聞いたら——」

視線を落とす。

「“あなたのお兄ちゃん”って」

静かな声。

「それ以上、聞けなかった」

「母さん、ちょっと泣きそうだったから」

沈黙。

「だから私、勝手に思ってたんだ」

「……もう、いない人なんだって」

「……」

琥太郎は、何も言えずに瞳を揺らす。

そして——


「……絵茉が中学生の頃、一度会ってるの、覚えてないだろ」

その言葉に、絵茉が驚いたように目を見開く。

「え?」

「立川蓮、て知ってるだろ?」

「蓮……。地元の先輩だけど」

「蓮は高校の後輩でさ。昔、一回だけ、地元の友達紹介したいって言われて、そっちに遊び行ったことがあったんだ。その時、まだ中学生だった絵茉に会った」

「なんでその時妹だって言ってくれなかったの?」

「確証がなかったんだ。母さんが絵茉を連れて出て行ったのは俺が小2でお前がまだ4歳だったから、母親の旧姓も、妹の顔も、よく覚えていなかった。ただ、絵茉っていう名前だけ覚えてた。」

「ならどうして私が妹だってわかったの?」

「お前小学生の時、なんかの賞取って新聞に載ったことあるだろ?大人になって、ばあちゃんの遺品整理してるとき、その記事の切り抜きを見つけた。」


——“吉岡絵茉”って名前。

それに、蓮と同じ地元の小学校。


「繋がった時、どうしてもっと早くって後悔した。
ばあちゃんが死んでから全然実家に帰ってなかったから。もっと早くあの記事見つけてたら、あの時名乗れたのにって」

「それから何年か立って、蓮のSNSでお前のアカウント見つけて……。気持ち悪いかもしれないけど、時々見てた。」


絵茉の瞳が揺れる。

そして、誤魔化すみたいに小さく笑った。

「……本当に、気持ち悪い」

その声は、言葉とは裏腹に優しい響きをしていて、琥太郎は、ふ、と笑う。



「母さんは?」

「——生きてるよ。でも今、入院してる」

「どこか悪いのか?」

「ちょっと、体壊してて。あの人、ずっと仕事掛け持ちして私のこと育ててくれたから」

「……」

「もう年だし、色々体にガタ来てんのよ」

「……すまなかった」

「なんであなたが謝るの?……」

泣きそうな顔で、絵茉が笑う。

「……謝るなら、会ってあげて」






——病室で、窓の外を眺める白髪混じりの女性

外で、元気に駆け回る子供を見ている。

あのくらいの年だった。

あの子を置いて来たのは——


その時、病室の扉が開く。

「絵茉?」

返事はない。

カーテン越しに、ゆらり、と映る影は絵茉じゃない。

男の人?

「どなた?」

その時。


「……琥太郎?」

その言葉に、カーテンに手をかける琥太郎の手が止まる。


覚えている。

優しい声。

込み上げてくるものを必死に押し込めて、笑顔を作る。

琥太郎の姿を見たその人の顔が、一瞬で崩れる。

声を上げて泣くその姿を見て、琥太郎の目にも涙が溢れた——

——


「父さんの再婚相手が最悪な人でさ」

琥太郎は、顔を顰めながら、母親の傍の椅子に腰を下ろす。

「ばあちゃんの入院中に父さんが連れて来たんだけど」

「ばあちゃんは自分が面倒を見るって言ったけど、病気もあって難しくて」

母さんは、琥太郎の話を黙って聞いている。


「ごめんね、あなたには辛い思いをたくさんさせたわね」

「そんなことないよ、ばあちゃん、怖かったけど、ちゃんと優しかったよ」

「ポチが死んだ時、一緒にお墓を作ったんだ。あの時、ばあちゃん泣いてて。俺が、鬼の目にも涙って言ったら、めちゃくちゃ怒られたけど」

それを聞いた母親は、ふふ、と笑う。


「……父さんの浮気を知った時、おばあちゃんがね、浮気くらいなんだ、男は浮気をするもんだって言ったのよ」

「でも、お母さんは弱かったから、受け入れられなかった……」


——あの家に嫁いでから、名家の嫁として、いろいろ叩き込まれた。

でも、上手くできなかった。

おばあちゃんは厳しかったけど、それも若い時の自分の苦労があったからで、決してただ意地悪なだけじゃない。

それがわかっていても、自分は我慢することができなかった——



母親は、そう、ぽつり、ぽつり、と言葉を落とす。


「……お母さん、琥太郎が施設に保護されたって聞いて一度家に行ったのよ。でも、会わせてもらえなくて」

視線を落とし、もう一度、ごめんね、と呟く。

琥太郎の、知らない事実だった。

でも、その事実を知った時、亡くなる前の祖母の悲しそうな顔が浮かぶ。


——「すまなかったねぇ」


その言葉が何に対しての謝罪だったのか、琥太郎には分からなかった。


ばあちゃんは毎日のように施設に来てくれた。
体力もないのに、毎日おはぎやプレゼントを持って。



柊は、甘いものが大好きだった。


「……食う?」

琥太郎がそう言うと、柊の目がぱっと輝く。

「いいの!?」

祖母はその様子を見て、ふっと目を細めた。

重箱からもう一つおはぎを取り出す。

「ほら。ゆっくり食べなさい」

「うまい!」

柊は口いっぱいに頬張り、

「おかわり!」と空の皿を差し出す。

祖母は思わず笑った。

その声につられるように、周囲の子供たちも集まってくる。


祐介。

美月。

他にもたくさん。


親がいる子。

いない子。


帰る場所がある子。

ない子。


みんな、それぞれ理由を抱えてここにいた。


祖母は静かに、おはぎを配る。


「ありがとう!」

「おばあちゃん、また作って!」


その無邪気な声に。

救われていたのは——


きっと祖母の方だった。




——あの頃、俺たちはみんな、誰かの“家族”になりたかったのかもしれない。


琥太郎は、どこに向けたらいいのわからない気持ちに、ただ涙をこぼすしかなかった——