「最近、琥太郎さん来ないね」
——Maple。
その日は、雨が降っていた。
雨のせいで客足も鈍く、閉店まであと一時間を残して、最後の客が店を出ていく。
いつもならこの時間、ふらりと店へ現れる琥太郎が、ここ最近顔を見せていなかった。
「忙しいんだろ」
祐介が煙草を咥えたまま、窓の外を見る。
「連絡は?」
「子供じゃないんだから、約束して来るもんでもねーよ」
洗い物をしていた柊が、少しだけ気まずそうに顔を上げた。
「……でも、最近少し変だったよな」
「……」
最後に琥太郎が店へ来たのは、一週間前。
その日は美月もいて、いつものようにみんなで柊の料理を囲み、大人たちは酒を飲んでいた。
「あいつ、普段甘いの食べないのに、おはぎ頼んでた」
ぽつりと柊が言う。
「……疲れてたとか?」
「ばあちゃんのこと、思い出したのかもな」
「……おばあちゃん?」
鈴が不思議そうに首を傾げる。
「この店の“ばあちゃんのおはぎ”のばあちゃんって、琥太郎のおばあちゃんのことなんだ」
「なにそれ初耳!」
「うるせーなガキ。耳元ででかい声出すな」
「もう! ヤブ機嫌悪い!」
そんなやり取りをしていた、その時だった。
柊のスマホが鳴る。
「……美月だ」
「チッ。リア充が」
暴言を吐く祐介を尻目に、通知を確認した柊が、突然顔色を変えた。
「……え?」
「どうした?」
「……絵茉ちゃんが」
「絵茉? 誰?」
初めて聞く名前に、鈴が首を傾げる。
その名前を聞いた瞬間、祐介の顔色が変わった。
「……あいつの妹か?」
「おい、なにしてんだお前ら」
繁華街。
柄の悪い男たちに囲まれている若い女。
「あ? なんだお前」
その姿を見た瞬間、考えるより先に体が動いていた。
女の手を掴んでいた男の腕を捻り上げる。
「いってぇな! なんだよ!」
「手を離せ」
自分でも驚く。
こんなことをする度胸なんて、昔の自分にはなかったはずなのに。
「てめぇ、なんなんだよ!」
気付けば、口が勝手に動いていた。
「——その子の兄貴だ」
「は? 兄貴? おい絵茉、お前兄貴なんていたのか?」
「……いない」
その言葉に、琥太郎の目が揺れる。
琥太郎は、スマホを握り締めた。
——妹のSNS。
たまに動向を見る。
それだけ聞くと、気持ち悪いシスコンみたいだけど。
琥太郎にとっては、妹のことを知る、たった一つの手段だった。
あの日、柊の店でおはぎを食べた。
“ばあちゃんのおはぎ”
その名前だけで、昔の記憶は簡単に蘇る。
だからだろうか。
急に、絵茉に会いたくなった。
絵茉がよく行くという繁華街へ、足を運んだ。
妹が少し派手なのは知っていた。
SNSに載せられる写真や動画で、なんとなくわかっていた。
四つ下。
二十三歳になった絵茉は、あの頃の面影を少し残したまま、綺麗に成長していた。
絵茉がよく行く店の前。
会えなくてもいい。
そう思っていたのに。
「離してよ!」
その声に、足が止まった。
「もう別れたんだから関係ないでしょ!」
「ふざけんな! 別れたとか俺は認めてねぇからな!」
「やだ、痛いってば!」
——とっさに、声が出ていた。
「おいおっさん、こいつに兄貴なんていねーってよ!」
「なんだ、新手のナンパか?」
一気に囲まれる。
どう見ても年下。
琥太郎は拳を握った。
「絵茉、行くぞ!」
その手を掴む。
「えっ……」
絵茉の戸惑った声。
「おい、おっさん!」
ヒュッ
飛んでくる拳。
「ちょ、やめてよ!」
不良を止める絵茉の声。
その時。
絵茉が、琥太郎の顔を見て息を飲んだ。
「——あなた、どこかで……」
次の瞬間。
飛んできた拳を避けきれず、琥太郎の意識は途切れた。
——
——「お兄ちゃん!」
幼い絵茉の声。
——「お義母さん、やっぱり琥太郎も……」
母さんの泣きそうな声。
——「琥太郎はこの家の跡取りだ!」
母さんが絵茉を連れて夏目家を出て行ったのは、俺が小学二年、絵茉がまだ四歳の夏だった。
一学期の終業式の日。
明日から夏休みだって、浮かれていた日だからよく覚えている。
母さんは、本当は俺も連れて行くつもりだった。
でも、ばあちゃんが俺を離さなかった。
俺が夏目家の長男で、跡取りだったからだ。
昔の家には、そういう理屈が当たり前みたいに残っていた。
でも、別に俺はばあちゃんが嫌いだったわけじゃない。
厳しくて、いつも怒っていたけど。
誕生日やクリスマスには、ばあちゃんなりにケーキやご馳走を作ってくれた。
飼っていた犬が死んだ時は、一緒に泣いて埋めてくれた。
ばあちゃんが生きていた頃は、母親がいない寂しさを除けば、それなりに平和だった。
俺が小学四年の冬。
ばあちゃんが倒れるまでは。
「初めまして、琥太郎くん」
——あの女が来るまでは。
最初こそ、優しいふりをしていた。
でも、徐々に本性を現した。
家の金を使い込み、会社の金にまで手を出した。
高価な買い物を繰り返し、俺を邪魔者扱いした。
口答えをして機嫌を損ねた日は、食事すら与えられなかった。
台所の残飯を食べていた俺が気に食わなかったのか、汚いものを見るような目を向けられ、真冬の外へ締め出されたこともある。
あの女は悪魔だった。
父は仕事を理由に、ほとんど家にいなかった。
いても、見て見ぬふりだった。
それは、ばあちゃんが退院してからも、何も変わらなかった。
「出ていけ!」
ばあちゃんが箒を振り上げる。
それを、女は涼しい顔で受け流した。
「お義母様、体に障りますよ?」
——そして。
小学六年の春。
それは、決定的な夜だった。
「琥太郎! 琥太郎!」
雨の中。
ばあちゃんが、俺を探す声が聞こえる。
でも、声が出せない。
体も動かせない。
その日は朝から、女の機嫌が悪かった。
昼間から酒を飲んで酔っていて、夜になる頃には完全に出来上がっていた。
突然、空の酒瓶を投げつけられた。
足りないから買ってこい、と怒鳴られる。
珍しく家にいた父は、やっぱり止めなかった。
反抗した俺の頭を掴み、女は殴る蹴るを繰り返した。
外は雨。
春先の雨は、冬の名残みたいに冷たかった。
ばあちゃんは体調を崩して、部屋で休んでいた。
女は俺の腕と足を縛ると、“お仕置き”だと言って、外の物置へ押し込み、鍵をかけた。
その物置の戸が開いた時。
目の前にいたのは、顔を真っ青にしたばあちゃんと警察官。
そして、その隣には、スーツを着た知らない大人が立っていた。
俺はそのまま、一時保護で施設へ預けられた。
ばあちゃんは俺を育てると言ってくれたけど、病気のこともあって難しかった。
父親は静観だった。
それどころか、
「施設にいた方が、もう問題にならなくて済む」
そんな話を、あの女としていたのを聞いてしまった。
夏目の家の評判。
世間体。
跡取りの不祥事。
あの人にとって大事だったのは、結局最後まで、俺じゃなく“夏目家”だった。
——絵茉。
せめて絵茉だけは、どこかで幸せに暮らしていてくれたら。
ずっと、そう願って生きてきた。
——
「情けねぇなぁ」
次に目を覚ました時。
呆れたような祐介の顔があった。
その後ろには、心配そうな柊と美月。
そして。
「……絵茉」
鈴の隣で腕を組み、気まずそうに立っている女。
「なんで……」
「……仮にも助けてもらったし。悪い人じゃなさそうだったから、放っておくのも後味悪いでしょ」
絵茉がぶっきらぼうに言う。
「たまたま私、送別会で近くにいたのよ」
美月が静かに続けた。
「騒ぎがあるって聞いて行ってみたら、琥太郎が不良に殴られてて」
「絵茉ちゃん、ここまで付き添ってくれたの」
「……あの」
その時。
絵茉が少し大きな声を出した。
「……なんなんですか」
戸惑ったように、全員を見る。
「どうしてみんな、私のこと知ってるんですか?」
柊と美月、そして祐介が顔を見合わせる。
琥太郎は、震える喉で声を絞り出した。
「……急に兄貴なんて言って、ごめんな」
ピクリ、と絵茉の指先が動く。
「……名乗るつもりなんかなかった」
掠れた声。
「でも、お前が変な奴らに絡まれてるの見たら……つい」
「ついってお前な」
祐介が呆れたように言う。
「弱いくせに不良に喧嘩売る度胸あるなら、もっと早く会いに行けよ」
「祐介」
柊が低く嗜める。
「……意味わかんない」
ぽつり、と絵茉が呟いた。
「今さら兄貴がいたなんて言われても、私……」
誰も、それ以上言葉が出なかった。
ただ一人。
鈴だけが、重苦しい空気に耐えきれず口を開く。
「っ、あーもう! とりあえず、お腹空きません!?」
「は? お前……」
呆れた祐介の声。
「……そうね」
美月が小さく笑う。
「琥太郎も目覚めたし。安心したら、お腹空いちゃった」
そして柊を見る。
「柊、何か作ってよ」
「ああ。そうだな」
柊は静かに頷いた。
「祐介、行くぞ」
「はいはい」
三人が病室を出ていく。
部屋に残されたのは、琥太郎と絵茉だけだった——
