「こんにちは」
「美月先生!いらっしゃい!」
週末のMaple。
昼下がりの優しい日差しが、ガラス張りの店内を暖かく包む。
「お客さんも引けたから、空いてるところに座ってて!今柊ちゃん、買い出しに行ってるの!」
美月はあれから、Mapleによく顔を出すようになった。
今では柊とも元通りで、すっかりラブラブだ。
「柊ちゃんがパパで、美月先生がママで、ヤブ医者がお兄ちゃん!」
ある日の週末、閉店後の店内。
いつものように集まるメンバー。
「俺は?」
「琥太郎さんは……おじいちゃん?」
「いや、俺まだ27だし」
「いいじゃねぇか、おじいちゃん」
「祐介まで……」
たわいもない冗談で、弾む会話。
「お兄ちゃん、ねぇ」
祐介は、ふ、と視線を下げた。
——「血は争えないのね」
頭に響くのは、母親の言葉。
父親は医者だった。
母親は、その愛人。
本妻には息子がいて、そいつが今、父親の病院を継いでいる。
自分が医者になると言った時、母親は冷たい目で吐き捨てた。
「血は争えない」
その言葉が刺さる。
家族がいるのに他所の女に子供を産ませるようなやつと同じ血。
吐き気がする。
——
「祐介、あんたの顔見てるとあの男を思い出して腹が立つの」
そう、小さい頃から母親に言われて育った。
母親は水商売で、昼夜逆転の生活。
夜働いて、朝帰ってくる。
帰ってきた母親は、化粧も落とさずそのまま布団に倒れ込む。
寝ている俺の布団を自分の方に引っ張って、寒くて震えている俺を足で蹴った。
「お腹すいた」
「カップラーメンあるから食べな」
まだ幼い子供。
必死にお湯を沸かしてカップラーメンに湯を入れる。
暑いお湯。
「っ!」
ガタン!
失敗して、中身をひっくり返してしまう。
「何やってんの!」
母親の怒鳴り声。
「もう早く学校行きな!」
朝ごはんも食べずに家を出る。
古い木造のアパートの階段を泣きながら降りる。
「いってらっしゃい!」
隣の家から聞こえる、優しい声。
母親が、子供を見送りに外に出てくる。
ランドセルを整えてやり、荷物を持たせる。
「気をつけてね」
その笑顔が、祐介に向けられることはない。
「祐介くんのお母さんて、愛人なんだろ?」
「すっげぇ若くて綺麗だよな。本当の子供なの?」
学校では、そう言ってからかわれる。
テレビで、どこかの大きな病院が紹介されていた。
その病院の、教授、という人物が映ったとき、母親がテレビを消した。
「くだらないもの見てんじゃねーよ!」
その教授を、祐介は知っていた。
たまに、家に来るから。
「やぁ、祐介くん。大きくなったね。息子の小さい頃にそっくりだ」
頭を撫でる大きな手。
その手に甘える母親。
——吐き気がする。
——
「……い。矢吹先生!」
看護師の呼ぶ声に、意識を取り戻す。
「お疲れですか?ここのところ風邪が流行ってますもんね。内科の患者も小児科に回されて来るそうですよ」
「ん、あー。昨日遅くまで飲んでたからな」
白衣のまま伸びをして、立ち上がる。
「また例の幼馴染のカフェですか?今度連れて行ってくださいよ」
「カップルとガキとじじぃしかいねぇけどいいか?」
「は?なんですか、それ」
現実は、かなりシビアで。
毎日は、慌ただしく過ぎる。
あのカフェにいる時が、一番落ち着く——
「先生ー!」
廊下を歩いていると、無邪気な声。
走って来る足音。
「こら、病院で走っちゃだめだろ」
そう優しく言い、走って来た男の子の頭を撫でた。
入院着はよれていて、長く入院生活を送っていることを物語っている。
「先生!今日ね!ママが来るんだ!お土産持って来てくれるって!」
「そうか、よかったな」
その時、病室で、寂しそうにぬいぐるみを抱きしめる別の子供が目についた。
「かっちゃんのママ、昨日も来なかったって。かわいそう。今日は来るかなぁ」
無邪気な子供たち。
みんな、なにかしらの怪我や病気でここにいる。
ふ、とあの頃の光景が目に浮かぶ。
まだ施設に入ったばかりの頃だった。
——
「ゆーすけ、そんなとこ登ったら危ないぞ!」
「ゆーすけくん、早く降りてきて!危ないよ!」
先に施設にいた、まだ幼い柊と美月が、楓の木の下で声を上げる。
「大丈夫だって!」
祐介は得意げに笑いながら、太い枝に足を掛けた。
その時だった。
ボキッ
嫌な音が響く。
「うわっ——!」
掴んでいた枝が折れ、祐介の身体が落ちる。
ドスン!
鈍い音を立てて尻餅をついた祐介は、驚いて一瞬声が出なかった。
「ゆーすけくん!」
美月の目に、みるみる涙が浮かぶ。
「大丈夫か!?」
柊が駆け寄り、手を差し出した。
祐介は顔をしかめながら、その手を掴む。
その時。
「こらー!何やってるの!」
職員の先生の声が飛んだ。
「やべ!」
祐介が顔を上げる。
「逃げるぞ!」
「えっ」
「行くぞ、美月!」
柊が美月の手を掴み、走り出す。
「ゆーすけくん、大丈夫!?」
柊に手を引かれながらも、美月は何度も後ろを振り返っていた。
——
あの時折れた枝は、今どうなっているのだろうか——。
⸻
「ゆーすけ先生?」
黙り込んだ祐介を心配そうに見上げる子供。
「大丈夫だ。きっと、今日は来てくれる。ほら、お前はママが来るんだろ。病室に戻りな」
「はーい!」
「……一服するか」
屋上に出る。
煙草に火をつけ、その煙が流れて行く先をぼぉっと見つめた。
「あ、ここにいた!矢吹先生!」
その時太い声が響く。
「お疲れ様です」
隣に立ったのは、春に大学病院から転院して来たばかりの内科医だった。
「矢吹先生のお兄さん、見えてますよ」
その言葉に、チッと舌打ちを落とす。
「今日休みだって伝えておけ」
「もうここにいる」
「……兄貴」
「お前、たまにはうちに顔出せよ。父さんも気にしてたぞ」
屋上の入り口からこっちに向かって歩いてきたのは、母違いの兄。
「……用がない」
「またそんなこと言って」
その声は呆れているようで、根っこは心配しているのが伝わるから、厄介だった。
「あの母親からまた金の無心されてないか?」
「いや。最近は連絡来てねぇ」
「ならいいけど。父さんが釘刺したようだからな。金がいるなら自分に言えって。あれでも後悔してんだぞ。お前が施設に入るまでネグレクトに気付かなかったこと」
「いつの話だよ」
ふー、と煙草の煙を吐き出す。
「お前、煙草やめろって」
「俺から煙草を取ったらストレスで死ぬ」
「はいはい。ほどほどにしとけよ」
「……暇なのか?」
「この病院にうちの患者が転院したんだよ。引き継ぎだ。電話でもよかったんだが、お前の顔見ときたくてな」
兄が帰った後。
「……疲れた。飯作んのめんどくせーな。Mapleでいっか」
そう、ひとりごとのように呟いた——。
カランカラン
「あ!ヤブお帰り!」
明るい声。
「とうとう医者まで省略か」
「だってヤブ医者って長いんだもん!」
「なに食う?」
「メニュー聞く前にこのガキちゃんと教育しろ」
「パパー。お兄ちゃん怖い」
「誰がお兄ちゃんだ。そしてお前はパパを訂正しねーのかよ」
ふぅ、とカウンターに腰を降ろす。
その時、カランカラン
再び鳴り響く来店の知らせ。
「いらっしゃ……なんだ、おじいちゃんか」
「……鈴ちゃん?」
「柊ちゃん、今日は美月ちゃん来ないの?」
「先生だろ。今日は来ないよ。教師は忙しいんだ」
「美月のところだけ訂正すんのかよ。そして俺だって暇じゃねぇ」
わいわいと過ぎる時間。
ほっとする時間。
最近では、家に帰るんだかMapleに帰るんだかわからなくなってきた。
「何笑ってんだよ。なんかいいことあったのか?」
琥太郎の不審そうな目。
「別に。」
そう返した祐介は、珍しく、穏やかに笑っていた——。
