「——結婚?」
「うん。式はまだ先だけど、先に籍だけ入れようかって」
柊の言葉に、鈴の顔が曇る。
「……そっか」
「すぐに、ってわけじゃないんだ。美月も学校のこととかあるし、色々落ち着いたらって」
鈴の顔を見て、柊が少し言葉を止める。
「……鈴?」
「美月ちゃん、ここに住むんだよね?」
「うん。そうなるな。家の中片付けないとな」
柊が困ったように、でも幸せそうに笑う。
「……おめでとう!ずっと大好きだったんだもんね、良かったね、柊ちゃん」
鈴の笑顔を見て、ほっとしたように柊の顔にも笑みが浮かぶ。
「鈴も片付け手伝えよー」
「……うん、任せて!」
——次の日
「鈴?起きてるかー?」
鈴が寝ている部屋の前で、名前を呼ぶ。
返事はない。
「おーい。開店準備するぞ」
軽くノックして、柊は部屋のドアを開ける。
「——鈴?」
部屋には、誰もいなかった。
ベッドの上には、綺麗に畳まれた毛布。
机の上に、小さな紙。
——今までありがとうございました
その一文だけを見た瞬間、柊の背筋が冷えた。
——
「鈴ちゃんがいなくなったって!?」
連絡を受けた琥太郎は、仕事の途中でMapleへ駆け込んできた。
「悪いな、琥太郎。仕事は大丈夫か?」
「外回りだから多少は融通きく」
息を整えながら、琥太郎は店内を見回す。
いつも騒がしい店が、今日は妙に静かだった。
「何があった?」
柊は、カウンターに置かれた紙を見る。
「……たぶん、昨日の話だ」
「結婚のこと、話したのか」
「ああ」
柊が、自嘲するみたいに笑う。
「鈴、笑ってたんだけどな」
——おめでとう!
昨日の、少しだけ無理をした笑顔が浮かぶ。
「俺、気付かなかった」
「……」
琥太郎は、机の上の紙を手に取る。
短い文字。
でも、鈴らしいと思った。
「行く場所に、心当たりは?」
「とりあえず朝からこの辺のコンビニとか公園、探してみたけど……」
柊が首を振る。
「学校は?」
「行ってない。美月が確認してくれた」
「家は?」
「電話出ない。美月が今様子見に行ってる」
柊が、深く息を吐く。
「……鈴、昨日言ってたんだよ」
「ん?」
「ここは、私の居場所なんだって」
その声は、少し震えていた。
「だから颯汰くんが入ってくるの嫌だったんだろうな」
琥太郎は、静かに目を伏せる。
“居場所”。
その言葉が、やけに胸に刺さった。
施設にいた頃。
帰る場所がなくなる怖さを、自分たちも知っている。
だから。
鈴が今、どんな気持ちなのか、少しわかってしまった。
カランカラン
店の扉が開く。
「美月!」
入ってきた美月は、少し息を切らしていた。
「家、誰もいなかった。カーテン閉まってて……ベルちゃんの鳴き声もしなかった」
「……そうか」
空気が、さらに重くなる。
その時だった。
柊の携帯が鳴る。
——『悪い、朝から診察が入ってて。鈴、見つかったか?』
電話の向こうで、祐介が少し焦ったように声を落とす。
「いや、まだ。家にもいなかったって」
——『そうか、午後は回診だけだから、終わり次第俺もそっちに向かう』
電話を切った柊は、スマホを握ったまま深く息を吐く。
「俺、もう一回その辺見てくる!」
「私も!学校に来てるかもしれないから、探しながら一度戻ってみるね!」
琥太郎と美月が店を出る。
そして、窓の外が少しずつ夕暮れに染まり始めた頃。
カランカランとドアベルが鳴り、祐介が、店に入ってくる。
「……見つかってねぇのか」
肩で息をしながら、柊の顔を見て眉を顰めた。
沈黙。
祐介は、小さく舌打ちした。
「……施設にいた頃」
祐介は、乱暴に煙草を取り出した。
「突然いなくなるやつ、たまにいたろ」
空気が止まる。
帰って来るやつもいた。
でも。
帰って来なかったやつもいた。
柊の顔色が、さっと変わる。
「……縁起でもねぇこと言うな」
柊が低く返す。
その時、バタン!と音を立てて琥太郎が駆け込んできた。
「……鈴ちゃんの家行くぞ」
柊と祐介が顔を見合わせる。
「今美月と電話してたら、親、帰ってきたって」
「美月!」
「柊!琥太郎、祐介も!」
「私、鈴ちゃんの家の近くを中心に探してたの。そしたら、さっきちょうど帰ってきて」
「……ここか」
普通の家。
だけど。
ガッシャーン
家の中から聞こえたその声に、柊たちは顔を上げる。
「あなたが無関心だからでしょ!」
女の声。
「母親はお前だろう!」
続いて、怒鳴る男の声。
「……」
4人は顔を見合わせる。
「……行くぞ」
祐介が、二階を見上げながらそう言葉を落とした。
怒鳴り声が聞こえるリビングとは別に、二階の一室に灯りが灯り、影が揺れていた。
ピンポーン
インターホンを押す。
静寂。
もう一度押す。
ガチャリ、とドアが開き、1人の女性が出てきた。
「どなたですか?」
女性の顔は、どことなく鈴に似ている。
疲れたような顔をしていた。
「鈴を迎えに来ました」
柊が言う。
「は?なんですかあなたたち」
女性の顔が険しくなる。
「おい、どうした」
女性の後ろから顔を出したのは、眼鏡をかけた気難しそうな男性だった。
「鈴を迎えに来たって」
女性が吐き捨てるように言う。
「あ?非常識な連中だな。お前、鈴をどういう教育してきたんだ」
「は?また私のせい?知らないわよ私はあの子のことなんて」
言い争いを始める二人を見て、琥太郎の眉がぴくりと動く。
「上がらせていただきます」
「おい!」
制止の声も聞かず、琥太郎は靴を脱いで玄関へ上がった。
「鈴さんの学校で教師をしています、沢田です。必要であれば学校に確認していただいても構いません」
美月が前に出る。
その間に、柊と祐介も琥太郎を追うように家へ入った。
「教師?」
男の声色が変わる。
美月は軽く頭を下げると、そのまま二階へ向かった。
「お前だけはずっと私と一緒にいてね」
くうーん
鈴は、ベッドを背もたれにベルをぎゅうっと抱きしめる。
昼間、美月が来た。
カーテンを閉め切って寝たふりをしていたら、帰ったみたいだけど、いつの間にか眠っていた。
——母親とあの人の怒鳴り声で目が覚めた。
玄関にあった鈴の靴を見て、なにやら言い合いに発展したのだろう。
鈴は、涙を我慢するようにベルの体に顔を埋めた。
その時。
階下が、急に騒がしくなる。
誰かの声。
バタバタと慌ただしい足音。
鈴が顔を上げた瞬間——
バタン!
「鈴!」
勢いよく扉が開く。
そこに立っていたのは、柊だった。
「柊ちゃん……」
続いて、美月、琥太郎、祐介も部屋へ入ってくる。
4人とも、鈴の顔を見た瞬間、張り詰めていたものが切れたように表情を崩した。
「……なんで、ここに……」
震える声。
その瞬間。
ふわり、と美月が鈴を抱きしめた。
「鈴ちゃん……良かった。ここにいたのね」
少し涙混じりの声。
鈴の指が、ぎゅっと美月の服を掴む。
柊が、そっと鈴の頭に手を置いた。
その手は、ひどく優しかった。
「私……邪魔じゃないの?」
鈴の声が、小さく落ちる。
部屋が静かになる。
柊は、苦しそうに眉を寄せた。
「……俺がお前を邪魔だと思うわけないだろ」
震えた声だった。
「バカね」
美月が、鈴を抱きしめたまま笑う。
「私と柊が今こうして一緒にいられるの、鈴ちゃんがあの日、私たちを会わせてくれたからなのに」
腕に、少しだけ力が入る。
祐介が呆れたように鈴のほっぺをつねった。
「このバカ娘。心配かけやがって」
「い、いたい……」
涙声のまま鈴が顔をしかめる。
その横で。
琥太郎が、へなへなと床に座り込んだ。
「……俺、安心したらなんか腰抜けた」
「お前は本当のじじぃだな」
祐介の軽口に、ふ、と鈴が笑う。
その笑顔を見て。
柊たちは、ようやく息を吐いた。
「帰ろう、鈴ちゃん」
美月が優しく言う。
「……私、あそこに帰っていいの?」
不安そうに揺れる瞳。
「当たり前だろ」
柊が、ぐりぐりと鈴の頭を撫でる。
鈴を連れて家を出る時。
リビングからは、もう怒鳴り声は聞こえなかった。
母親も継父も、何も言わなかった。
——
Mapleの扉を開ける。
カランカラン
静かな音が響く。
「おかえり」
柊が笑った。
鈴は、泣きそうな顔のまま視線を揺らす。
その時。
「ここは、鈴ちゃんの帰る場所だよ」
美月が、ふわりと笑う。
鈴の瞳から、ぽろりと涙が零れた。
「鈴、腹減ってない?おはぎ食うか?」
その言葉に。
琥太郎と祐介が、同時に吹き出す。
「なんでそこでおはぎなんだよ」
「いや、柊らしいだろ」
鈴は、泣きながら笑った。
——
「ただいま!」
制服姿の鈴が、勢いよくMapleの扉を開ける。
「おかえり」
カウンターの向こうで、祐介が気だるそうに手を上げた。
「いや、お前はたまには家で寝ろよ」
そんな祐介に、柊が呆れたように突っ込みを入れる。
その時。
「新婚さんいらっしゃーい!」
と妙なノリで来店する琥太郎。
珍しく酔っている。
「ごめんなさい、今日はめでたい日だからってここにくる前に飲んできちゃって」
隣で絵茉が困ったようにため息をついていた。
カランカラン
扉が開いてもう1人。
「お、お邪魔します」
気まずそうに顔を出した颯汰を見て、鈴が吹き出した。
「なんでそんな顔なの!」
そう笑って。
「この間は酷いこと言ってごめん」
鈴は、颯汰の背中をぐいっと押した。
「ほら、入って!」
「改めまして」
「柊ちゃん、美月ちゃん、結婚おめでとうー!!」
Mapleに、暖かな笑い声が広がる。
——あの頃、帰る場所を探していた俺たちは。
今、ようやく——
“ただいま”と言える場所に辿り着いたのかもしれない——
end
