あの日の君へ



翌日、会社は記事の噂でもちきりだった。

社内の視線が刺さる。

「あの子でしょ、成瀬慶と……」

「CMを理由に近づいたんじゃない?」

「おとなしそうな顔してるのにね」

違う部署の人からも、ヒソヒソと好奇の目を向けられる。


記事は見送られた。

でも、一度広がった疑惑は、完全には消えなかった。

 
ドサ。


声を掻き消すみたいに、自分の席へ乱暴に荷物を置いた市川くんが、

「飲み行くか」

そう言って、柔らかく笑った。



————



「——鈴原って、成瀬慶と地元一緒だよな?」

グラスを置きながら、市川くんが何気なく言う。

結衣の手が、一瞬だけ止まった。

「……なんで?」

「いや、この前資料見てた時、出身地同じだなって」

「ああ……」

「もしかして、元々知り合い?」

その問いに、結衣は少しだけ笑った。

「……幼馴染」

「え、マジで?」

市川が身を乗り出す。

「すげーじゃん」

「別にすごくないよ」

そう答えながら、結衣はグラスに視線を落とした。

炭酸が、静かに揺れている。


慶ちゃんと会うたび、苦しいくらい昔を思い出す。

『結衣、ありがとな。元気出た』

不意に、あの日の声が蘇った。




店を出る。

夜風が、少し冷たかった。

「鈴原」

後ろから、市川くんが呼ぶ。

「……しばらく休んだ方がいいんじゃない?」

結衣が振り返る。

「今、社内かなりピリついてるし」

困ったみたいに笑う。

「お前、たぶん思ってる以上に消耗してる」

結衣は、小さく笑った。

「……そうかな」

でも。

その声は、自分でも分かるくらい、弱っていた。



家に帰り、電気をつける。

しん、と静まり返った部屋は、ひんやりと冷たかった。

その時。

スマホが震える。

画面に表示された名前。


『成瀬慶』


胸が、苦しくなる。


——出たい。

声が聞きたい。

会いたい。

でも。

結衣は、そっと画面を伏せた。


出るのが怖かった。




翌日。

「成瀬側への対応は会社で進めるから、お前は少し休め」

課長の声は、思っていたより優しかった。

けれど。

その言葉が、逆に胸に刺さる。

自分で謝ることすら、許されない気がした。

「……はい」

結衣は小さく答える。

もう何も言い返せなかった。




————



部屋の中は、静かだった。

台所には、昨日使ったグラスが綺麗に並べられている。

床に置かれていた雑誌も、出前の容器も、もう片付けた。

なのに。

ソファに置かれたブランケットだけは、まだそのままだった。

慶は、それをしばらく見つめていた。

——結衣が、ここにいた。

それだけは事実で。

なのに、まだどこか現実感がない。

ただ、自分のせいで迷惑をかけたことだけは、痛いほどわかっていた。

慶は、深く息を吐く。

スマホを手に取る。

履歴の一番上。

『結衣』

静かな部屋に、呼び出し音だけが響いた。



週刊誌騒動から二日後。

CMの打ち合わせに向かうと、そこにいたのは結衣じゃなかった。

「はじめまして、市川です」

聞けば、結衣は有給で地元に帰っているらしい。

まさか、記事のせいで?

「安心してください。鈴原、担当外されたわけじゃないんで」

どこまで知っているのか、市川が笑う。

「幼馴染って聞きました。あいつ、そういうこと、こっちから聞かないと言わないから」

——あいつ。

親しげなその呼び方に、慶はわずかに眉を寄せた。

市川。

あの日、結衣と並んで笑っていた男。

慶は静かに拳を握る。

——俺の知らない結衣を、こいつは知ってる。

俺がいなかった五年を。

そして、堂々と隣に立つことを許されている。

その事実が、思っていた以上に胸をざわつかせた。



昨日、結衣に電話をかけた。

でも、繋がらなかった。

折り返しがくるかと少し期待したけれど、今になっても連絡はない。

このまま、また。

あの頃みたいに、少しずつ連絡の仕方が分からなくなって。

気付けば。

今度こそ、もう戻れなくなるんじゃないか。


ブランケットに触れる。

結衣の匂いが、まだ微かに残っている気がした。

慶は、そっと、視線を落とした。