「慶、次CMの撮影入ってるから、このままお昼食べちゃって」
午前中のドラマ撮影を終えて、マネージャーのクルマに乗り込むと、運転先から紙袋を差し出される。
受け取ると、ふわっと香る米の匂い。
「香織さんの手作り。具はお前の好きな鮭と梅だって。大事にされてんな」
マネージャーの言葉に、ふ、と笑う。
紙袋を開けると、おにぎりが二個入っていた。
「よろしくお願いします」
撮影現場に入る。
新作CMの撮影初日。
今日は代理店のプランナーが挨拶に来ると聞いていた。
「成瀬さん」
呼びかけられ、振り向く。
「駒田です。今日はよろしくお願いします」
差し出された名刺。
その隣に立つ顔を見た瞬間。
——慶は、言葉を失った。
「ゆ——」
「初めまして。本日はよろしくお願いします」
その人は、そう言って一度だけ軽く頭を下げると、駒田と並んでその場を離れていった。
視線だけが、無意識にその姿を追う。
何事もなかったみたいに、現場は動き出す。
スタッフが慌ただしく行き交い、照明が調整され、次々と声が飛ぶ。
「成瀬さん、そろそろお願いします」
呼ばれて、慶はようやく我に返った。
「……はい」
返事をしながらも、視線はさっきまで結衣がいた場所を探してしまう。
——いない。
もう、どこにもいなかった。
「今日、調子悪いですか?」
スタッフが不思議そうに尋ねる。
「いや……」
短く答えたあと、慶は少し間を置いて制作側へ視線を向けた。
「今日の代理店担当って」
「ああ、駒田さんですか?」
「……その隣にいた人は?」
一瞬の間。
「えっと……鈴原さん、だったと思います。まだ二年目で、勉強中らしくて」
その言葉で、慶の指先が止まった。
静かに、拳が握られる。
——結衣。
忘れたことなんて、一度もなかった。
『慶ちゃん? なんでいるの?』
冷たい、と笑いながら俺の手を包んだ声も。
『気にしてないよ』
そう言った時、少しだけ震えていた声も。
まだ、昨日のことみたいに覚えているのに——
お互いが、お互いを想ったまま。
終わったことを確かめることもなく、時間だけが流れた。
どちらかが、
もう好きじゃないと。
終わりだと。
そう言えばよかったのかもしれない。
でも、どっちも言わなかった。
言えなかった。
——確かめるのが、怖かった。
撮影終わり。
局内のロビーを抜けようとして、慶はふと足を止めた。
少し離れた場所。
結衣が、誰かと笑っていた。
「だから市川くん、それ絶対大袈裟でしょ」
「いやマジだって。あの時の部長の顔見た?」
肩を揺らして笑う結衣。
隣の男も、自然な距離で笑っている。
——近い。
そう思った瞬間、自分でも笑いそうになった。
今更、何を考えてるんだ。
結衣には、結衣の時間があった。
自分が知らない五年がある。
当たり前だ。
なのに。
胸の奥が、嫌にざわつく。
市川、と呼ばれた男は、結衣を「鈴原」と呼んでいた。
それだけで少し安心してしまった自分が、馬鹿みたいだった。
——もし。
あの時。
もっとちゃんと、言葉にできていたら。
この道を選ばなかったら。
あの隣で笑っていたのは、自分だったんだろうか。
慶は小さく息を吐く。
そして、自嘲するみたいに笑った。
「……ほんと、今更だろ」
それでも。
気付けば、声をかけていた。
「結衣」
自分でも笑えるくらい、声が震えていた。
結衣が、驚いたように振り返る。
「……慶ちゃん」
名前を呼ばれる。
昔と変わらない呼び方で。
変わらない声で。
それだけで、胸の奥が大きく揺れた。
「……久しぶり」
結衣が笑う。
その顔を見た瞬間。
なぜか泣きそうになって、慶は小さく息を飲んだ。
「うん。……久しぶり」
局内のカフェテラス。
向かい合って座っているのに、どこか落ち着かない。
「結衣、カフェラテでいい?」
そう聞くと、結衣が少し驚いたように目を丸くした。
「……私が好きなの、覚えてたんだね」
慶は小さく拳を握る。
——忘れるわけないだろ。
そう言いたくなって、結局何も言えなかった。
「……いつ、東京に?」
結衣の手が止まる。
「……」
何も言わない。
「……元気だったか?」
本当は、そんなことが聞きたいわけじゃない。
どう過ごしていたのか。
自分を少しでも思い出したことはあったのか。
聞きたいことは、もっと別にあるのに。
沈黙のあと。
「……私ね」
結衣がカップを見つめたまま口を開く。
「地元の制作会社に就職したの。地元のCMとか、フリーペーパーとか作るような小さい会社」
静かな声だった。
「でも、その会社が今の会社に統合されて……その時、声がかかったの」
「……そうなんだ」
慶は頷く。
「……すげーじゃん」
「え?」
「結衣、昔から器用だったもんな」
結衣がきょとんとする。
「修学旅行のしおりとか。めちゃくちゃ綺麗に作ってた」
思いがけない言葉だったのか、結衣が小さく笑った。
「……そんなの覚えてるの?」
「覚えてる」
慶も笑う。
「クラスのやつみんな、“鈴原すげー”って言ってたし」
「言ってたの慶ちゃんだけでしょ」
「みんな言ってた」
その空気が、少しだけあの頃みたいで。
慶は胸の奥が、じわりと熱くなるのを感じていた。
「……さっき話してた」
「え?」
「自販機のところで。一緒にいた人」
ああ、と結衣が小さく笑う。
「市川くん? 同期なの。彼も地方出身でね」
「……そっか」
その言葉に、自分でも驚くくらいほっとした。
——何安心してるんだよ。
慶は視線を落とし、小さく苦笑する。
今更、そんな資格あるわけないのに。
その時だった。
「成瀬さん! スタンバイお願いします!」
スタッフの声に、結衣が先に席を立つ。
「あ、じゃあ私、仕事戻らなきゃ」
「……あ」
思わず呼び止める。
結衣が振り返る。
「……俺、連絡先変わってないから」
結衣の視線が揺れた。
「……私も」
その言葉に、慶は小さく息を飲む。
そして。
「……電話する」
気付けば、そう言っていた——。


