あの日の君へ


——数年後




「……これ、私みたい」

ぽつりと漏れた声に、隣の席の市川くんが顔を上げた。

「なに?」

ずい、と覗き込まれる。

画面には、整理されていないデスクトップ。

アイコンが散らばりすぎて、どれがどれか分からない。

「……探したいのに、見つからない」

「それ、散らかってるだけだろ」

「うるさい」

結衣は小さく息を吐いた。

「頭の中も、こんな感じ」

「じゃあ整理すれば?いらないのゴミ箱に入れて」

「なにがいらないのかわかんない」

市川くんが笑う。

「それ、詰んでない?」

結衣は返事をせず、ノートパソコンを閉じた。

「次、会議だから」

「ああ、新作CMのコンペ?」

「そう」

「——成瀬慶」

その名前で、空気がわずかに変わる。

「それもう当たったようなもんだよな」

市川くんが、何気なく言った。

結衣は一瞬だけ言葉に詰まり、それを隠すように立ち上がった。

「……行くね」



会議室に入ると、まだ人はまばらだった。

「鈴原、資料まとめた?」

駒田が、シャツの袖を無造作にまくりながら入ってくる。

「……一応、揃ってます」

「助かる。あの成瀬慶だからな。気合い入れてくぞ」

「……はい」

モニターの準備をしながら、結衣は淡々と答えた。


——その名前は、もう仕事の一部だ。

そう思おうとしていた。


一ヶ月前の記憶が、ふいに胸の奥をかすめた。


——


「このCMに、成瀬慶を使いたいんだけど、どう思う?」

先輩の駒田さんが、そう言って私の言葉を待っている。

「……ええ。イメージにはピッタリだと思います」


——


そう答えた自分の声だけが、妙に残っている。


「では、こちらの映像をご覧ください」

画面が切り替わる。

モニターに映像が流れ始めた瞬間、会議室の空気が少しだけ変わった。

照明が落とされ、静かな音楽が流れる。

白い光の中で、ひとりの男が歩いてくる。

視線を上げた瞬間、結衣の指先がほんのわずかに止まった。


——成瀬慶。


画面の中の彼は、あの頃よりずっと遠くて、ずっと眩しかった。

でも、目の奥だけは、なぜか変わっていない気がした。

「今回のコンセプトは、" 日常に落ちる非日常"です」

誰かの説明が続いている。

けれど、言葉はほとんど入ってこなかった。

映像の中で、慶がふと笑う。


——やめてよ。

そんなふうに笑わないで。


そう思った瞬間。


——結衣!


あの声と、笑い方。

胸の奥に、無理やり押し込めていたものが少しだけ揺れた。


「鈴原さん、この印象どうですか?」

駒田に振られて、はっと顔を上げる。

「……ええ。すごく、いいと思います」

声はいつも通り出た。

問題ない。

仕事として成立している。

それだけでいい。

モニターの中では、慶が別の表情を見せている。

「じゃあ、この方向でいきますかね」

駒田の声で、映像が止まった。

会議室に光が戻る。

結衣は一度だけ瞬きをして、資料に目を落とした。

「……はい」

それだけ答えると、ページをめくるふりをした。

指先だけが、少しだけ冷たかった。




最近は、東京での生活にも仕事にも、少しずつ慣れてきていた。

一人暮らしの部屋にも、もう慣れたと思っていた。

それなのに。

窓の外を流れる景色が、やけに遠く見えた。

電車の吊り革を握る。

ふ、と視線を上げると、広告が揺れていた。

そこに、成瀬慶の姿があった。


——ずるいよ


吊り革を握る手に力が入る。

現実はいとも簡単にあの頃に引き戻す。


『俺が会いたいから来たの!』


私を抱きしめる腕の力強ささえも。

まだ、こんなにも覚えているのに——



——あの時、寂しいって言えていたら。

今も、隣にいられたのかな。