「鈴原! 次のCM、お前の名前で企画書作ってみるか?」
「え……?」
思わず顔を上げる。
駒田が、分厚いファイルを机の上に置いた。
「今度発売される新作パフュームのCM依頼が来たんだよ」
表紙には、海外ブランドのロゴ。
「ターゲットは、二十代前半から後半に向かう女性。鈴原の感性、結構合うと思う」
「……私が、ですか?」
「おう。そろそろ一本、自分の名前でやってみろ」
胸の奥が、どくんと鳴る。
自分の名前で。
企画を。
「デビューにはちょうどいいだろ」
駒田がコーヒーを片手に笑う。
結衣はゆっくりファイルに触れた。
ずっしりと重い。
期待の重さみたいだった。
「……やります」
顔を上げる。
駒田が、少しだけ嬉しそうに笑った。
「よし。じゃあまずはコンセプトから考えてみろ」
結衣は頷く。
その瞬間。
ふと、頭に浮かんだ。
——自信を持って、隣に立てるようになりたい。
あの日、決めたこと。
結衣は静かにファイルを抱きしめた。
——
「慶。映画の話が来てる」
マネージャーが、どこか誇らしそうに笑った。
「今度の映画はすごいぞ。主演だ」
差し出された資料。
そこには、大きくタイトルが書かれている。
『主演 成瀬慶』
慶の目が、わずかに揺れた。
「原作は泉麗華の大ヒット小説。監督はあの井上将吾」
「しかも今回は向こうからのオファーだ。“主演は成瀬慶で”って」
静かな部屋。
慶はゆっくり拳を握り締めた。
——誰にも何も言わせないくらい、仕事で成功して。
朝美に言われた言葉が、ふいに頭をよぎる。
結衣の顔も浮かぶ。
慶は静かに顔を上げた。
その目には、もう迷いはなかった。
「……やります」
短い声。
でも、その言葉は真っ直ぐだった。
「やらせてください」
——
——数日後。
休憩中に開いた雑誌。
『主演 成瀬慶』
『原作 泉麗華』
『監督 井上将吾」
結衣は静かにページを閉じた。
「すごいな、成瀬慶」
隣の席から、市川が身を乗り出す。
「……うん」
「連絡した?」
結衣は、ゆっくり首を振った。
「決めたから。私」
市川は、“何を”とは聞かなかった。
ただ、小さく笑う。
「そっか」
そして突然、パン、と手を叩いた。
「じゃあ今日飲み行こうぜ!」
「は?」
結衣が目を瞬く。
「鈴原の企画通った祝い。もう店予約してある」
「強制じゃん」
思わず吹き出す。
「安心しろ。ちゃんと何人か呼んでる」
「……何それ」
結衣は小さく笑った。
今は。
市川のその明るさが、ありがたかった。
——
「そういえばこの前」
朝美が雑誌をめくったまま言う。
「鈴原さんに会ったわよ」
慶の視線が上がる。
「……え?」
「今度のCM」
グラスを揺らしながら、朝美が続ける。
「彼女が作った企画。パフュームのやつ」
慶の目がわずかに揺れる。
朝美はふっと笑った。
「感性いいわよ、あの子」
「プロット見せてもらったけど、すごくいいCMになると思う」
慶は何も言えなかった。
結衣は今も、ちゃんと前に進んでる。
自分の知らない場所で。
ちゃんと、自分の仕事をしてる。
その事実が、少しだけ苦しくて。
でも。
どこか、嬉しかった。
『初めまして。鈴原結衣です。よろしくお願いします』
そう言って、丁寧に頭を下げた女性。
名前を聞いた瞬間、朝美はすぐに分かった。
——この子が、慶の。
結衣は資料を開きながら、落ち着いた声でCMの説明をしていく。
香りのイメージ。
映像の温度感。
光の使い方。
ひとつひとつを、真剣に言葉へ変えていく。
朝美も自然と聞き入っていた。
凛としているのに、どこか柔らかい。
真面目なその姿が、妙に可愛らしく見えて。
——ああ。
慶が好きになるの、分かる気がした。
「……朝美さん?」
慶の声。
朝美はハッとしたように視線を上げる。
「……なによ」
「いや、なんかぼーっとしてたから」
その言葉に、朝美はふっと笑った。
「なんでもないわ」
——
「最近、成瀬慶、演技変わったよね」
街中で、そんな声が耳に入る。
ふ、と足を止める。
「わかる! なんか前より刺さる演技するようになったよね」
「表情とか」
「「声とかね!」」
高校生くらいの女の子たちが、楽しそうに盛り上がっている。
街頭ビジョンには、慶が主演を務める映画の予告。
知らない人たちが、慶の名前を口にしている。
その姿が、少し遠くて。
でも。
少し誇らしかった。
結衣は足を止めたまま、小さく笑った。


