「あの青嶋丈一郎の息子」
世間が勝手に騒ぎ始めて。
勝手に期待して。
勝手に比べた。
周りの視線が、少しずつ変わっていった。
でも。
結衣だけは違った。
そんなこと、どうでもいいみたいに。
ただ、“慶ちゃん”として笑ってくれた。
どれだけ救われていたんだろう。
大事だった。
本当に。
好きだった。
自分でも持て余すくらいに。
離れていた五年も。
再会してからも。
それなのに。
『慶ちゃんと一緒にいると、私が苦しいの』
結衣の震える声が、頭から離れない。
胸の奥が、ゆっくり抉られるみたいに痛んだ。
守りたかったはずなのに。
また、自分は結衣を苦しめてしまった。
『……やっぱり私たち、一緒にいない方がいいと思う』
電話の向こう。
泣きそうな声。
『仕事以外では、会わないようにする』
『担当も、変えてもらうつもり』
『……ごめんね』
全部、結衣に言わせてしまった。
そして。
『……あと、お母さんに、ちゃんと連絡返してあげて』
『梓さん、寂しそうだった』
胸の奥が、ぐしゃぐしゃに痛んだ。
「……わかった」
やっと絞り出した声。
通話が切れる。
静まり返った部屋。
慶はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
『それが、彼女のためでもある』
朝美に言われた言葉が、頭から離れない。
——
「あんた、やる気あるの?」
香織さんがタバコの煙を吐き出す。
「事務所からの電話にも出ないで、撮影にも遅刻するなんて、なんのつもり?」
「……もう、辞めたいです」
会議室に、慶の声が落ちた。
香織さんはしばらく黙っていた。
それから、深く息を吐く。
「あんたねぇ……」
呆れたように笑う。
「私は別にいいのよ」
慶が顔を上げる。
「あんたは、もう充分返してくれたから」
静かな声だった。
「でもね。あんたに期待して、ここまで育てたのは私だけじゃない」
胸が痛む。
東京に出てこいと言われた日。
断った自分に。
寮も。
学校も。
生活も。
全部なんとかするから来い――そう言ってくれた。
何もなかった自分を、ここまで連れてきてくれた人たち。
何も言えなかった。
香織さんが部屋を出たあと。
「香織さん、あんな言い方してたけど」
後ろから朝美の声がした。
「本心では、あんたのこと手放したくないのよ」
朝美は静かに続ける。
「未成年で、地方出身だったあんたを、ここまで育ててくれた人たちに」
その目が、まっすぐ慶を見る。
「あんた、恩を仇で返すの?」
言葉が刺さる。
「そんなことして、彼女が喜ぶと本気で思ってる?」
慶の視線が揺れた。
「あんたの演技は、人の心を動かす」
静かな声。
「泣いてた人を笑顔にしたり。さっきまで笑ってた人を泣かせたり」
「そういう俳優って、そんなにいないの」
朝美はふっと笑った。
「……悔しいけど」
その目が、まっすぐ慶を見る。
「私より、“持ってる”のよ。あんた」
静かな部屋。
「……ひどい顔」
朝美が呆れたようにため息をつく。
「しっかりしなさい」
そして。
「誰にも何も言わせないくらい仕事で成功して」
その目が、まっすぐ慶を見る。
「それでもまだ、お互い好きだったなら」
朝美はふっと笑った。
「迎えに行くくらいの覚悟、持ちなさいよ」
そのまま部屋を出ていく。
扉が閉まる音。
静かな部屋。
慶はソファに深く座ったまま、ぼんやり天井を見上げた。
翌日。
移動中のタクシー。
窓の外を流れる東京の景色を眺めながら、慶は疲れたように目を閉じていた。
ラジオが流れている。
聞くともなく耳に入ってくる声。
その時だった。
ルームミラー越しに、運転手がちらりとこちらを見る。
「あの……成瀬慶さん、ですよね?」
慶が顔を上げる。
「……はい」
「いやぁ、娘がファンなんですよ」
運転手が嬉しそうに笑う。
「バスケのドラマ出てましたよね?」
慶の目が少し揺れる。
「あれ見て、娘、バスケ始めたんです」
思わず、言葉を失う。
「サインとか貰ったら喜ぶかなぁ」
照れくさそうに笑う運転手。
慶は、しばらく何も言えなかった。
窓の外に流れる街明かりを見つめる。
『あんたの演技は、人の心を動かす』
朝美の声が、ふいに頭をよぎる。
慶は静かに目を閉じた。


