あの日の君へ




家に帰ると、玄関の前に座っている人影が見えて、思わず足を止めた。

「……慶ちゃん?」

街灯に照らされたその横顔は、さっきまで雑誌で見ていた人物そのものだった。


成瀬慶。


今、一番勢いのある若手俳優。

その本人が、どうして私の家の前にいるんだろう。

慶ちゃんはゆっくり顔を上げると、少しだけ目を細めた。

「おかえり」

「なんでいるの?」

「……会いたくなったから」

そう言って笑った顔は、笑っているのにどこか疲れて見えた。

「いつからいたの?」

「さっき来たとこ」

嘘だ。

慶ちゃんの手は、驚くほど冷え切っていた。

「……手、冷た」

思わずその手を包み込むと、慶ちゃんが少し困ったように笑う。

「結衣、あの記事見ただろ?」

「ああ……うん」

数時間前に見たネットニュースを思い出す。

人気女優、水澤朝美との“密会”。

写真付きの記事だった。


「まさか、それで帰ってきたの?」

「それもあるけど」

慶ちゃんは小さく息を吐いた。

「ただ、俺が会いたかった」

胸の奥が、少しだけ痛くなる。

「……私も、会いたかったけど」

「うん」

繋いだ手に、力が込められる。

次の瞬間。

慶ちゃんは私を引き寄せ、そのまま強く抱きしめた。

冷たい身体。

きっと急いで帰ってきたんだ。

「……記事のことなら気にしてないよ」

「でも傷ついたかなって」

「ちゃんと電話くれたじゃん。記事が出る前に」

慶ちゃんは少しだけ安心したように目を伏せる。

それでも、どこか不安そうだった。

「でも、やっぱ写真で見ると嫌だろうなって。てか……俺が嫌だった」

「まぁ、嫌ではあるよ?」

少し意地悪したくなってそう言う。

「あんな綺麗な人と一緒にいたら、そりゃヤキモチくらい妬くし」

慶ちゃんの目が揺れた。

「……心配させるようなこと、何もねぇよ」

「わかってる」

それは本心だった。

慶ちゃんがそんな簡単に他の人に気持ちを向ける人じゃないことくらい、知っている。

でも。

「やっぱりさ。あんな綺麗な人に好きって言われたら、男の人って嬉しいんじゃないの?」

慶ちゃんは少し寂しそうに笑った。

「……結衣以外に好きって言われても嬉しくない」

「本当に?」

「……俺だって心配だよ」

「え?」

思わず聞き返す。

慶ちゃんは少しだけ視線を落として、それから小さく笑った。

「結衣が寂しい時とか、学校で辛いことあった時とか、俺そばにいられないだろ」

静かな声。

「そんな時、そばにいてくれる男が現れたら、そっちの方がよくなるのかなって」

予想もしていなかった言葉に、私は思わず吹き出してしまった。

「なにそれ」

「笑うなよ」

「だって、慶ちゃんがそんなこと思うんだって意外で」

でも。

少しだけ嬉しかった。

東京に行く前の慶ちゃんは、もっと自信満々で、どこか無敵みたいだったから。

「……最近、学校どう?」

「普通。楽しいよ」

答えながら、私は慶ちゃんを見上げる。

「でも早く卒業したい」

「なんで?」

「卒業したら東京行くから。そしたら、ずっと慶ちゃんのそばにいられるでしょ」

それはずっと決めていたことだった。

高校を卒業したら東京へ行く。

慶ちゃんのそばにいたいから。

その瞬間。

慶ちゃんの顔が、ぱっと明るくなる。

「うわ、やば」

「なに?」

「今のめちゃくちゃ嬉しい」

子供みたいな顔で笑うから、なんだか照れくさくなってしまう。

「……バカ」

「あーあ、早く結婚したい」

「は!?」

「照れてんの?」

「照れてない!」

「可愛い」

「バカなの?」

笑いながら、また抱きしめられる。

この時間が好きだった。

何でもない会話。

くだらないやり取り。

ただ一緒にいるだけで満たされる、この感じ。

でも。

家の中から、お母さんの笑い声が聞こえてきて、私たちはどちらからともなく身体を離した。

「……さて。顔見れたし帰るわ」

「え?泊まってかないの?」

てっきりゆっくりしていけると思っていた私は、思わず聞き返す。

「明日も朝からロケ」

「そんな忙しいのに来てくれたの?」

「だから、俺が来たかったの」

そう言って笑う顔が愛しくて、胸が苦しくなる。

「……ありがと」

「結衣」

慶ちゃんが、少しだけ真面目な顔になる。

「ありがとな。元気出た」

傷ついたのは私の方のはずなのに。

どうして慶ちゃんの方が、そんな顔をするんだろう。

「また電話する」

「うん」


何度経験しても、この別れ際だけは慣れなかった。

行かないで。

寂しい。

もっと一緒にいたい。

喉の奥まで出かかった言葉を、私は飲み込む。


「じゃあな」

「……うん。気をつけて帰ってね」


慶ちゃんが帰ったあと。

私はその場にしゃがみ込んだ。

玄関にも入れないまま、ただ俯く。


寂しい。

行かないで。

そばにいて。

好き。

大好き。

涙が勝手に零れて、止まらなかった。


私は慶ちゃんを支えたかった。

でも。

田舎の普通の女子高生の私には、東京で俳優として輝いている慶ちゃんが、眩しすぎた。

綺麗な女優やモデルに囲まれている世界。

その隣にいる自分を、どうしても想像できなかった。


一緒にいたい。

そばにいたい。

それは本音。

でも最近は、不安の方が大きかった。

きっと慶ちゃんは、それに気付いていた。

だから今日、忙しい中わざわざ帰ってきたんだ。

負担になりたくないのに。

支えたいのに。

「……ごめんね、慶ちゃん」





次の日の朝だった。

学校へ行く支度をしながら、ぼんやりテレビの音を聞いていた時。

不意に聞こえてきた名前に、私は顔を上げた。


『続いてのニュースです』

『人気俳優・成瀬慶さんが、昭和の大スター青嶋丈一郎さんの息子であることが判明しました』


息が止まる。


『青嶋丈一郎さんと元女優・水澤恭子さんは、長女である女優・水澤朝美さんが幼い頃に離婚しています』

『今回明らかになったのは、青嶋さんが婚姻関係中に別の女性との間にもうけた子供が成瀬慶さんだった、という事実です』


頭が真っ白になる。


『水澤朝美さんと成瀬慶さんは、先日熱愛記事も報じられていました』

『同じ事務所に所属する2人ですが、事務所はコメントを控えています』


テレビの向こうでは、コメンテーターたちが好き勝手なことを話していた。

でも。

そんな言葉はもう耳に入らなかった。

私はただ、慶ちゃんの昨日の顔を思い出していた。

あの、泣きそうな顔を。


——ああ。


だから帰ってきたんだ。

ようやく気付いた瞬間。


胸が、ぎゅっと苦しくなった。