それから数日後。帝のお墨付きという最強にして最悪の切り札により、私はついに陰陽寮へと足を踏み入れることになった。
当然、女人禁制を強引にこじ開けてやってきた私を迎える、陰陽寮の役人達の目は冷ややか……
「なぜこんな場所に女子が……」
「晴明様の助手らしいが……正気か?」
ひそひそと交わされる陰口と、突き刺さるような白い目。
机に並ぶおどろおどろしい古文書や天文図よりも、男達の放つ拒絶の空気の方がよっぽど息苦しい。
私は借りてきた猫のように肩をすぼめ、陰陽寮の冷たい板敷きの上で立ち尽くすしかなかった。
「桃花、どうしたの?緊張してる?」
「してるに決まってるじゃん……絶対歓迎されてないよ。もう帰りたい……」
私が蚊の鳴くような声で呟くと、晴明は「ええー、困るよ。桃花がいないと僕の睡眠時間が消滅しちゃう」と、緊張感のない声で笑った。
晴明が近くにいるからか、直接文句を言ってくる人はいない。
私が周囲を睨むでもなく、ただただ縮こまって袖をぎゅっと握りしめていると、晴明はフッと口元を緩めた。
その笑みは、いつものだらしない弟のそれではなく、都の人間が『神々しい』と拝む方の、綺麗な微笑みだった。
「大丈夫だよ。誰も桃花に手出しなんてさせないから」
晴明はそう言うと、私の前にすっと一歩踏み出し、わざとらしく大きな動作で私の肩に手を置いた。
「みんな、おはよう。今日から僕の個人的な雑務を引き受けてくれる、助手の桃花だ。帝からの許可もちゃんと頂いているから、仕事の依頼や書類の提出は、まず彼女を通してもらうことになるよ」
晴明が『帝』という言葉をわざと強調して微笑むと、冷ややかだった周囲の目線が、一瞬で畏怖へと変わった。
女人禁制のルールを最高権力でねじ伏せて連れてこられた女子と、それを平然と従える稀代の天才陰陽師。
役人からすれば、私は関わってはいけない『恐るべき存在』に映ったに違いない。
「じゃあ、そろそろ帝に会いに行こうか」
「え?」
あまりに突拍子のないその言葉に、私の声は裏返った。
「いーやーだー」
「ほらほら行くよー」
ぶっとい柱にしがみついて必死で抵抗する私の着物を、晴明はつんつんと軽く引っ張る。
「無駄な抵抗はやめなって。袖が伸びちゃうよ?」
「袖くらい破れたっていい!相手は帝でしょ!?雲の上の存在どころか天の上の人じゃん! なんで庶民の私が謁見しなきゃいけないの!?」
「だって、お墨付きをもらったお礼と、顔見せは基本でしょ?『直々に感謝を述べたい』って言ったら、帝もすごく楽しみにしてたよ」
必死に両腕で柱を抱きしめて粘る私だったが、晴明がフッと目を細め、怪しい手つきで指を組んだ。
「……あ、ずるい!術使おうとしてるでしょ!?」
「使わせる前に離せばいいんじゃない?」
爽やかな笑顔で脅迫され、私は泣く泣く柱から手を離した。
「……覚えときなよ晴明……もし首が飛ぶことになったら、化けて出て毎晩枕元で呪ってやる……」
「わー、怖い怖い」
「本当に化けて出るからね……!」
呪詛の言葉を吐き捨てながら、私は引きずられるようにして晴明の後ろをついて歩いた。
少し歩いていると、ピタリと晴明が足を止めた。
綺麗に整えられた庭園に、泰仁さんが立っているのが見える。
泰仁さんは草木を愛でるようにパチっとハサミで枝を切っていた。
あれ、泰仁さんって庭師だっけ?
「やぁ、晴明。……それに桃花さんも。今日は陰陽寮の案内?」
こちらに気づいた泰仁さんが、いつもの穏やかな笑みを浮かべて振り向いた。その温かい眼差しに、私はすがるような思いで駆け寄る。
「泰仁さん!助けてください!晴明が急に『帝に顔見せしに行くよ』なんて言い出して……っ!」
私が泣きつくように叫ぶと、泰仁さんは手に持っていた植木ハサミをパチンと鳴らし、首をかしげた。
「それはまた、ずいぶんと急な話だね」
「そうなんですよ!庶民の私が帝にお会いするなんて、緊張で心臓が口から飛び出そうです!礼儀作法も何にも知らないのに……!粗相をして打ち首にならないか心配で」
「大丈夫だよ。帝だって薬草園の管理っていう名目で庭師のフリをしてる怪しい人だから、作法なんて気にしなくていいよ」
横から軽口を叩く晴明の頭を、泰仁さんは手に持っていた剪定バサミの柄でごちんと小突いた。
「痛っ!」
頭を抱えて抗議する晴明をよそに、泰仁さんはハサミを腰の袋に仕舞うと、いたずらっぽく片目を細めて微笑んだ。
その立ち振る舞いは相変わらず上品で、庭師の作業着をまとっていてもどこか気品が漂っている。
「失礼だな、晴明。俺はただ、丹精込めて育てた草木が帝のお気に召すよう、日々手入れをしているだけのしがない庭師だよ」
「嘘ばっかり。旅人って設定じゃなかったんですか?」
「旅人兼庭師だよ」
「何ですか、それ。そんなしがない庭師が、内裏の最奥まで顔パスで通れるわけないでしょ」
晴明は意地悪く口元を歪めると、泰仁さんと私の間に割り込むように立ち、腕を組んだ。
二人の話についていけず、アタフタと二人の顔を見る。
「ねぇ、泰仁様。数日前、都の市でうちの買い出し係を翻弄してくれたらしいじゃないですか。五人の男が一瞬で昏倒したとかいう、不思議な事件の現場で」
晴明が探るような視線を向けると、泰仁さんは「やだな、俺はただの巻き込まれた被害者だよ」と、相変わらず掴みどころのない笑顔で軽やかにかわす。
「桃花さんが親切に介抱してくれたおかげで助かったんだ。……それにしても晴明、あまり彼女をからかって困らせるものじゃないよ」
泰仁さんは優しく目を細めると、私と目線を合わせるように、ゆっくりと腰を落とした。
「君がそんなに怯える必要はないよ。帝もただ、晴明がどんな面白い『助手』を連れてきたのか気になっているだけだからね」
泰仁さんはそう言うと、目元を和ませてふっと微笑んだ。
「それに……俺のことも、そんなに身構えずに『ちょっと顔の広い庭師のお兄さん』くらいに思っていてくれればいいから」
「そんなこと言われても……っ!」
完全に翻弄されている私を見て、泰仁さんは楽しそうに肩を揺らし、立ち上がって着物の埃を払った。
「さて、あまりお上を待たせるのも良くない。一緒に行こうか」
「えっ……泰仁さんも来るんですか?」
「うん。晴明に連れ回されて可哀想な君の護衛も兼ねてね」
そう言って泰仁さんが前に歩き出すと、晴明が私の隣に並び、呆れたように小さく息を吐いた。
「ほんと、食えない人ですね。桃花、騙されちゃダメだよ。あの人、旅人兼庭師どころか――」
「晴明?」
前を歩く泰仁さんが振り返りもせずに声をかけると、晴明は「なーんでもないでーす」と棒読みで返し、私にだけ聞こえる声で「……後でちゃんと説明するから」と囁いた。
静かな清涼殿の廊下に、三人の足音がカツカツと軽やかに響く。
泰仁さんは相変わらず悠然とした足取りで前を歩き、晴明は私の横で退屈そうに欠伸を噛み殺している。
「到着したよ、桃花さん」
泰仁さんがゆっくりと指先で扉を押し開ける。
その先には、高御座が鎮座する絢爛豪華な紫宸殿の空間に、誰も座っていない御座があった。
「あれ……?帝はお留守……?」
私がポカンとして部屋を見回すと、泰仁さんはそのまま足を止めることなく、御座にスッと座った。
「な、何してるんですか?泰仁さん!勝手に座って、怒られたり……」
「怒られる?誰に?」
泰仁さんは、豪勢な御座の上に優雅に腰を下ろすと、長い衣の裾をサラリと整えた。
そのまま頬杖をつき、悪戯が成功した子供のような、けれどどこか恐ろしいほどに圧倒的な気品を湛えた笑みを浮かべて私を見た。
「面白い考えだね」
「……え?」
「ここはこの国の頂点に立つ者が座る場所だが、俺が座って俺自身に怒るというのも妙な話だね」
意味が理解できずフリーズする私を置いて、泰仁さんは楽しげに言葉を続ける。
「……あ」
喉から絞り出したような声がひとつ漏れ、私の思考は完全に停止した。
御座の上で優雅に頬杖をつき、悪戯っぽく目を細める泰仁さん。
庭師の作業着をまとっていたはずなのに、その立ち姿、その存在感は、今や目の前の黄金や紫の色彩すら霞ませるほどに圧倒的で、気高く、神々しい。
「……み、帝……!?」
パニックを起こした頭でどうにか言葉を紡ぐと、隣で晴明が「はい、正解ー」と投げやりに手を叩いた。
「――だから言ったでしょ。『明日、とても驚くことが起きるよ』って」
晴明は呆れたように肩をすくめると、呆然と固まっている私の背中をポンポンと叩いた。
当然、女人禁制を強引にこじ開けてやってきた私を迎える、陰陽寮の役人達の目は冷ややか……
「なぜこんな場所に女子が……」
「晴明様の助手らしいが……正気か?」
ひそひそと交わされる陰口と、突き刺さるような白い目。
机に並ぶおどろおどろしい古文書や天文図よりも、男達の放つ拒絶の空気の方がよっぽど息苦しい。
私は借りてきた猫のように肩をすぼめ、陰陽寮の冷たい板敷きの上で立ち尽くすしかなかった。
「桃花、どうしたの?緊張してる?」
「してるに決まってるじゃん……絶対歓迎されてないよ。もう帰りたい……」
私が蚊の鳴くような声で呟くと、晴明は「ええー、困るよ。桃花がいないと僕の睡眠時間が消滅しちゃう」と、緊張感のない声で笑った。
晴明が近くにいるからか、直接文句を言ってくる人はいない。
私が周囲を睨むでもなく、ただただ縮こまって袖をぎゅっと握りしめていると、晴明はフッと口元を緩めた。
その笑みは、いつものだらしない弟のそれではなく、都の人間が『神々しい』と拝む方の、綺麗な微笑みだった。
「大丈夫だよ。誰も桃花に手出しなんてさせないから」
晴明はそう言うと、私の前にすっと一歩踏み出し、わざとらしく大きな動作で私の肩に手を置いた。
「みんな、おはよう。今日から僕の個人的な雑務を引き受けてくれる、助手の桃花だ。帝からの許可もちゃんと頂いているから、仕事の依頼や書類の提出は、まず彼女を通してもらうことになるよ」
晴明が『帝』という言葉をわざと強調して微笑むと、冷ややかだった周囲の目線が、一瞬で畏怖へと変わった。
女人禁制のルールを最高権力でねじ伏せて連れてこられた女子と、それを平然と従える稀代の天才陰陽師。
役人からすれば、私は関わってはいけない『恐るべき存在』に映ったに違いない。
「じゃあ、そろそろ帝に会いに行こうか」
「え?」
あまりに突拍子のないその言葉に、私の声は裏返った。
「いーやーだー」
「ほらほら行くよー」
ぶっとい柱にしがみついて必死で抵抗する私の着物を、晴明はつんつんと軽く引っ張る。
「無駄な抵抗はやめなって。袖が伸びちゃうよ?」
「袖くらい破れたっていい!相手は帝でしょ!?雲の上の存在どころか天の上の人じゃん! なんで庶民の私が謁見しなきゃいけないの!?」
「だって、お墨付きをもらったお礼と、顔見せは基本でしょ?『直々に感謝を述べたい』って言ったら、帝もすごく楽しみにしてたよ」
必死に両腕で柱を抱きしめて粘る私だったが、晴明がフッと目を細め、怪しい手つきで指を組んだ。
「……あ、ずるい!術使おうとしてるでしょ!?」
「使わせる前に離せばいいんじゃない?」
爽やかな笑顔で脅迫され、私は泣く泣く柱から手を離した。
「……覚えときなよ晴明……もし首が飛ぶことになったら、化けて出て毎晩枕元で呪ってやる……」
「わー、怖い怖い」
「本当に化けて出るからね……!」
呪詛の言葉を吐き捨てながら、私は引きずられるようにして晴明の後ろをついて歩いた。
少し歩いていると、ピタリと晴明が足を止めた。
綺麗に整えられた庭園に、泰仁さんが立っているのが見える。
泰仁さんは草木を愛でるようにパチっとハサミで枝を切っていた。
あれ、泰仁さんって庭師だっけ?
「やぁ、晴明。……それに桃花さんも。今日は陰陽寮の案内?」
こちらに気づいた泰仁さんが、いつもの穏やかな笑みを浮かべて振り向いた。その温かい眼差しに、私はすがるような思いで駆け寄る。
「泰仁さん!助けてください!晴明が急に『帝に顔見せしに行くよ』なんて言い出して……っ!」
私が泣きつくように叫ぶと、泰仁さんは手に持っていた植木ハサミをパチンと鳴らし、首をかしげた。
「それはまた、ずいぶんと急な話だね」
「そうなんですよ!庶民の私が帝にお会いするなんて、緊張で心臓が口から飛び出そうです!礼儀作法も何にも知らないのに……!粗相をして打ち首にならないか心配で」
「大丈夫だよ。帝だって薬草園の管理っていう名目で庭師のフリをしてる怪しい人だから、作法なんて気にしなくていいよ」
横から軽口を叩く晴明の頭を、泰仁さんは手に持っていた剪定バサミの柄でごちんと小突いた。
「痛っ!」
頭を抱えて抗議する晴明をよそに、泰仁さんはハサミを腰の袋に仕舞うと、いたずらっぽく片目を細めて微笑んだ。
その立ち振る舞いは相変わらず上品で、庭師の作業着をまとっていてもどこか気品が漂っている。
「失礼だな、晴明。俺はただ、丹精込めて育てた草木が帝のお気に召すよう、日々手入れをしているだけのしがない庭師だよ」
「嘘ばっかり。旅人って設定じゃなかったんですか?」
「旅人兼庭師だよ」
「何ですか、それ。そんなしがない庭師が、内裏の最奥まで顔パスで通れるわけないでしょ」
晴明は意地悪く口元を歪めると、泰仁さんと私の間に割り込むように立ち、腕を組んだ。
二人の話についていけず、アタフタと二人の顔を見る。
「ねぇ、泰仁様。数日前、都の市でうちの買い出し係を翻弄してくれたらしいじゃないですか。五人の男が一瞬で昏倒したとかいう、不思議な事件の現場で」
晴明が探るような視線を向けると、泰仁さんは「やだな、俺はただの巻き込まれた被害者だよ」と、相変わらず掴みどころのない笑顔で軽やかにかわす。
「桃花さんが親切に介抱してくれたおかげで助かったんだ。……それにしても晴明、あまり彼女をからかって困らせるものじゃないよ」
泰仁さんは優しく目を細めると、私と目線を合わせるように、ゆっくりと腰を落とした。
「君がそんなに怯える必要はないよ。帝もただ、晴明がどんな面白い『助手』を連れてきたのか気になっているだけだからね」
泰仁さんはそう言うと、目元を和ませてふっと微笑んだ。
「それに……俺のことも、そんなに身構えずに『ちょっと顔の広い庭師のお兄さん』くらいに思っていてくれればいいから」
「そんなこと言われても……っ!」
完全に翻弄されている私を見て、泰仁さんは楽しそうに肩を揺らし、立ち上がって着物の埃を払った。
「さて、あまりお上を待たせるのも良くない。一緒に行こうか」
「えっ……泰仁さんも来るんですか?」
「うん。晴明に連れ回されて可哀想な君の護衛も兼ねてね」
そう言って泰仁さんが前に歩き出すと、晴明が私の隣に並び、呆れたように小さく息を吐いた。
「ほんと、食えない人ですね。桃花、騙されちゃダメだよ。あの人、旅人兼庭師どころか――」
「晴明?」
前を歩く泰仁さんが振り返りもせずに声をかけると、晴明は「なーんでもないでーす」と棒読みで返し、私にだけ聞こえる声で「……後でちゃんと説明するから」と囁いた。
静かな清涼殿の廊下に、三人の足音がカツカツと軽やかに響く。
泰仁さんは相変わらず悠然とした足取りで前を歩き、晴明は私の横で退屈そうに欠伸を噛み殺している。
「到着したよ、桃花さん」
泰仁さんがゆっくりと指先で扉を押し開ける。
その先には、高御座が鎮座する絢爛豪華な紫宸殿の空間に、誰も座っていない御座があった。
「あれ……?帝はお留守……?」
私がポカンとして部屋を見回すと、泰仁さんはそのまま足を止めることなく、御座にスッと座った。
「な、何してるんですか?泰仁さん!勝手に座って、怒られたり……」
「怒られる?誰に?」
泰仁さんは、豪勢な御座の上に優雅に腰を下ろすと、長い衣の裾をサラリと整えた。
そのまま頬杖をつき、悪戯が成功した子供のような、けれどどこか恐ろしいほどに圧倒的な気品を湛えた笑みを浮かべて私を見た。
「面白い考えだね」
「……え?」
「ここはこの国の頂点に立つ者が座る場所だが、俺が座って俺自身に怒るというのも妙な話だね」
意味が理解できずフリーズする私を置いて、泰仁さんは楽しげに言葉を続ける。
「……あ」
喉から絞り出したような声がひとつ漏れ、私の思考は完全に停止した。
御座の上で優雅に頬杖をつき、悪戯っぽく目を細める泰仁さん。
庭師の作業着をまとっていたはずなのに、その立ち姿、その存在感は、今や目の前の黄金や紫の色彩すら霞ませるほどに圧倒的で、気高く、神々しい。
「……み、帝……!?」
パニックを起こした頭でどうにか言葉を紡ぐと、隣で晴明が「はい、正解ー」と投げやりに手を叩いた。
「――だから言ったでしょ。『明日、とても驚くことが起きるよ』って」
晴明は呆れたように肩をすくめると、呆然と固まっている私の背中をポンポンと叩いた。



