それから月日が流れ、童子丸―――晴明は『稀代の天才』と呼ばれるようになり、京でその名を知らぬ者はいないほどの陰陽師となっていた。
都に怪異が現れれば晴明の名が呼ばれ、 不吉な星が出たと騒がれれば、陰陽寮から使いが走る。
『安倍晴明殿ならば鬼すら退ける』
『式神を自在に操るらしい』
『 狐の血を引いているのだとか……』
京の町では、そんな噂が絶えない。
けれど、その本人は――。
「桃花、お腹空いた」
「さっき、あれほど団子食べてたじゃん.....」
縁側に寝転がりながら、晴明はだらしなくこちらへ手を伸ばしてくる。 普段着の流しは半分ほど着崩れ、髪も結び直す気配がない。
噂の完璧陰陽師の欠片もないほどになっていた。
「町にみんなが見たら倒れるね」
「僕が格好良すぎて?」
「噂と違いすぎて」
即答すると、晴明は「ひどいなぁ」と笑いながら、ごろんと寝返りを打った。
「僕はそんな完璧じゃないよ。そりゃあ、術で右に出る者はいないけど、普通の宮仕えなんだから」
「ははは、蜜柑の皮すらろくに剥けないのに......?」
差し出された蜜柑の皮を剥く。 何が悲しくて、恋文と一緒に晴明宛に送られてきた蜜柑を剥いてやらなければならないのか。
晴明の横には山のような恋文。
しかも全部、色も香も違う。 几帳面に香が焚き染められていて、どれも高そうな紙だ。
「すごいねぇ」
「何が?」
「恋文の量」
毎月のように送られてくる恋文だが、晴明本人は全く読む気がないらしい。
開封すらされていない文が、無造作に積まれている。
「返事しなくていいの?」
「桃花が代わりに書く?」
「嫌だよ」
「じゃあいいや」
「良くないと思う」
すると晴明は、こちらをちらりと見た。
「みんなが憧れているのは、僕じゃなくて『天才陰陽師・安倍晴明』っていう虚像だからさ。そんなキラキラした手紙を読んでも、窮屈なだけだよ」
そう言って、彼は縁側から起き上がり、山積みの恋文のトップにある一通を持ち上げ、また戻した。
「それよりさ、お父さんとお母さんが旅先から送ってくれたあの珍しいお茶、まだ残ってたっけ?美味しかったよねぇ」
「あ、話変えた」
私の呟きに聞こえないふりして、晴明は自室に行ってしまった。
「返事はちゃんと書きなよー」
「......分かったー」
ようやく返事を書き出してくれたみたいだ。
珍しいこともあるものだ、と感心しながら私は父上と母上が送りつけてきたお茶とお菓子を盆に乗せて晴明の自室の前に立った。
二人は今、旅行中なのだ。
「晴明、お茶持ってきたよ」
声をかけて襖を開けると、そこには机に向かって筆を走らせる晴明の姿があった。
いつもなら面倒そうにため息をつくはずの彼が、今は珍しく真剣な表情をしている。その姿に少し驚きながら、お茶とお菓子の乗ったお盆を机の傍らに置いた。
「はい、お茶。……で、本当に返事書いてるんだ?」
覗き込んでみると、机の上に広げられていたのは、都の姫君達からの豪華な恋文……ではなく、少し手慣れた風合いの、見覚えのある古い紙だった。
「式神に代筆を頼まないなんて.......偉い!」
「母上に怒られたからね」
そういや、式神に返事を代筆させていると知った母上は、『和歌がヘッタクソでも、ちゃんと書いたほうが相手も喜ぶわよ』と晴明に言い聞かせていた。
ちなみにその時、父上は横で大笑いしていた。
「あはは!そうそう、父上ったら『さすが葛ノ葉、良いことを言う!』なんて調子よく乗っかってさ。そのあと母上に『あなたも昔、私の気を引こうとして他人の歌を丸写しして送ってきたでしょう』って暴露されて、一瞬で目を逸らしてたよねー」
「急に二人の馴れ初め話を聞かされるはめになるとは思わなかったけどね」
晴明はそう言いながら、さらさらと筆を動かす。
その横顔は、さっきまで蜜柑も剥けないだの恋文で圧死しかけただの言っていた人と同じとは思えないほど整っていた。
「喋らなければそれなりに見栄えが良いよねー、晴明って」
「それなり、はひどいなぁ。せめて『都一の美男子』くらい言ってくれても良いじゃない。……ほら、一応書き終わったよ」
晴明は満足げに息を吐くと、書き上げたばかりの返書を軽く振って墨を乾かす。そこに並ぶのは、彼の性格には似合わない、驚くほど流麗で美しい文字。
「どれどれ……『君がため 春の野に出でて 若菜摘む……』って、晴明。これ、光孝天皇の有名な歌じゃない。アレンジどころか、上の句そのままだよ」
「あ、分かった? でも下はちょっと変えたから大丈夫。父上みたいに丸写しして母上に何十年もからかわれ続けるよりは、ずっとマシだと思うんだよね」
悪びれもせずにそう言って、晴明はお盆に載せてきたお菓子に手を伸ばし、ぱくりと口に放り込んだ。
「謝ろう。これを書いた方に謝ろう」
ヤバい。この男、本当にヤバい。
晴明の肩に手を置き、引用した方に対しての土下座を説得する。
「方って言い方が妙に丁寧だね」
「相手は帝だよ!」
私は晴明の肩をがっしり掴んだ。
「ほら!今すぐ!土下座!」
「えぇー……」
「“光孝上皇様、大変申し訳ありませんでした”って!」
「本人もういないじゃない」
「気持ちの問題!」
ぐらぐらと肩を揺さぶると、晴明は困ったように笑いながら筆を置いた。
その後、やいややいや言い合って何とか返事を書くことができた。隣で見張っていたから、下手なことはしていないだろう。
「これで全部?」
「うん」
晴明は大げさに両手を突き上げて伸びをすると、そのまま後ろにごろんとひっくり返った。やりきったと言わんばかりの顔をしていますが、実際に手を動かさせたのは私だ。
「はいはい、お疲れ様。でも、これで母上に『手紙はどうしたの?』って笑顔で詰め寄られずに済むんだから、私に感謝してよね」
「……まぁ、僕一人だったら確実に式神に丸投げして、後で母上の笑顔から怒られる羽目になってただろうからね。そこは素直に感謝しておくよ。ありがとう、桃花」
晴明は寝転がったまま、顔だけをこちらに向けて、観念したようにふにゃりと笑った。
........明日って雨降るっけ?
都に怪異が現れれば晴明の名が呼ばれ、 不吉な星が出たと騒がれれば、陰陽寮から使いが走る。
『安倍晴明殿ならば鬼すら退ける』
『式神を自在に操るらしい』
『 狐の血を引いているのだとか……』
京の町では、そんな噂が絶えない。
けれど、その本人は――。
「桃花、お腹空いた」
「さっき、あれほど団子食べてたじゃん.....」
縁側に寝転がりながら、晴明はだらしなくこちらへ手を伸ばしてくる。 普段着の流しは半分ほど着崩れ、髪も結び直す気配がない。
噂の完璧陰陽師の欠片もないほどになっていた。
「町にみんなが見たら倒れるね」
「僕が格好良すぎて?」
「噂と違いすぎて」
即答すると、晴明は「ひどいなぁ」と笑いながら、ごろんと寝返りを打った。
「僕はそんな完璧じゃないよ。そりゃあ、術で右に出る者はいないけど、普通の宮仕えなんだから」
「ははは、蜜柑の皮すらろくに剥けないのに......?」
差し出された蜜柑の皮を剥く。 何が悲しくて、恋文と一緒に晴明宛に送られてきた蜜柑を剥いてやらなければならないのか。
晴明の横には山のような恋文。
しかも全部、色も香も違う。 几帳面に香が焚き染められていて、どれも高そうな紙だ。
「すごいねぇ」
「何が?」
「恋文の量」
毎月のように送られてくる恋文だが、晴明本人は全く読む気がないらしい。
開封すらされていない文が、無造作に積まれている。
「返事しなくていいの?」
「桃花が代わりに書く?」
「嫌だよ」
「じゃあいいや」
「良くないと思う」
すると晴明は、こちらをちらりと見た。
「みんなが憧れているのは、僕じゃなくて『天才陰陽師・安倍晴明』っていう虚像だからさ。そんなキラキラした手紙を読んでも、窮屈なだけだよ」
そう言って、彼は縁側から起き上がり、山積みの恋文のトップにある一通を持ち上げ、また戻した。
「それよりさ、お父さんとお母さんが旅先から送ってくれたあの珍しいお茶、まだ残ってたっけ?美味しかったよねぇ」
「あ、話変えた」
私の呟きに聞こえないふりして、晴明は自室に行ってしまった。
「返事はちゃんと書きなよー」
「......分かったー」
ようやく返事を書き出してくれたみたいだ。
珍しいこともあるものだ、と感心しながら私は父上と母上が送りつけてきたお茶とお菓子を盆に乗せて晴明の自室の前に立った。
二人は今、旅行中なのだ。
「晴明、お茶持ってきたよ」
声をかけて襖を開けると、そこには机に向かって筆を走らせる晴明の姿があった。
いつもなら面倒そうにため息をつくはずの彼が、今は珍しく真剣な表情をしている。その姿に少し驚きながら、お茶とお菓子の乗ったお盆を机の傍らに置いた。
「はい、お茶。……で、本当に返事書いてるんだ?」
覗き込んでみると、机の上に広げられていたのは、都の姫君達からの豪華な恋文……ではなく、少し手慣れた風合いの、見覚えのある古い紙だった。
「式神に代筆を頼まないなんて.......偉い!」
「母上に怒られたからね」
そういや、式神に返事を代筆させていると知った母上は、『和歌がヘッタクソでも、ちゃんと書いたほうが相手も喜ぶわよ』と晴明に言い聞かせていた。
ちなみにその時、父上は横で大笑いしていた。
「あはは!そうそう、父上ったら『さすが葛ノ葉、良いことを言う!』なんて調子よく乗っかってさ。そのあと母上に『あなたも昔、私の気を引こうとして他人の歌を丸写しして送ってきたでしょう』って暴露されて、一瞬で目を逸らしてたよねー」
「急に二人の馴れ初め話を聞かされるはめになるとは思わなかったけどね」
晴明はそう言いながら、さらさらと筆を動かす。
その横顔は、さっきまで蜜柑も剥けないだの恋文で圧死しかけただの言っていた人と同じとは思えないほど整っていた。
「喋らなければそれなりに見栄えが良いよねー、晴明って」
「それなり、はひどいなぁ。せめて『都一の美男子』くらい言ってくれても良いじゃない。……ほら、一応書き終わったよ」
晴明は満足げに息を吐くと、書き上げたばかりの返書を軽く振って墨を乾かす。そこに並ぶのは、彼の性格には似合わない、驚くほど流麗で美しい文字。
「どれどれ……『君がため 春の野に出でて 若菜摘む……』って、晴明。これ、光孝天皇の有名な歌じゃない。アレンジどころか、上の句そのままだよ」
「あ、分かった? でも下はちょっと変えたから大丈夫。父上みたいに丸写しして母上に何十年もからかわれ続けるよりは、ずっとマシだと思うんだよね」
悪びれもせずにそう言って、晴明はお盆に載せてきたお菓子に手を伸ばし、ぱくりと口に放り込んだ。
「謝ろう。これを書いた方に謝ろう」
ヤバい。この男、本当にヤバい。
晴明の肩に手を置き、引用した方に対しての土下座を説得する。
「方って言い方が妙に丁寧だね」
「相手は帝だよ!」
私は晴明の肩をがっしり掴んだ。
「ほら!今すぐ!土下座!」
「えぇー……」
「“光孝上皇様、大変申し訳ありませんでした”って!」
「本人もういないじゃない」
「気持ちの問題!」
ぐらぐらと肩を揺さぶると、晴明は困ったように笑いながら筆を置いた。
その後、やいややいや言い合って何とか返事を書くことができた。隣で見張っていたから、下手なことはしていないだろう。
「これで全部?」
「うん」
晴明は大げさに両手を突き上げて伸びをすると、そのまま後ろにごろんとひっくり返った。やりきったと言わんばかりの顔をしていますが、実際に手を動かさせたのは私だ。
「はいはい、お疲れ様。でも、これで母上に『手紙はどうしたの?』って笑顔で詰め寄られずに済むんだから、私に感謝してよね」
「……まぁ、僕一人だったら確実に式神に丸投げして、後で母上の笑顔から怒られる羽目になってただろうからね。そこは素直に感謝しておくよ。ありがとう、桃花」
晴明は寝転がったまま、顔だけをこちらに向けて、観念したようにふにゃりと笑った。
........明日って雨降るっけ?



