眩しい傘の下で、透明な相棒

 去年の八月三十一日。
 その日、灯食堂には近所の子どもたちが集まっていた。宿題を終えた者、終えていない者、終えたと言い張る者。文乃さんは「嘘をついた子にはキャベツ多め」と言いながら、青葉焼きを焼いた。
 智はその日、店に来ていない。家で予定表を見直していた。二学期の委員会、部活の道具点検、課題の提出日。真面目に準備するほど安心するのに、窓の外から聞こえる笑い声に、少しだけ置いていかれた気がしたのを覚えている。
 依茉は、灯食堂の丸椅子に座り、膝の上で指を組んだ。
「私、来てた。お母さんが遠くの市で働くって決まって、家の中がばたばたしてた。私は何を言っていいかわからなくて、ここに来たの」
 智は黙って聞いた。
 依茉は人の話を大切にする。だから今は、智が依茉の話を遮らない番だった。
「文乃さんが青葉焼きを出してくれて、『夏休みが終わらないって顔してるね』って言った。私が『終わらなければいいのに』って言ったら、『終わるから、また会える日が来るんだよ』って」
 透明な電球は点いていないのに、依茉の横顔を照らしているように見えた。
「そのとき、文乃さんがレシピノートを開いてた気がする。誰かに何かを書かせてた」
「誰に?」
「わからない。店が混んでたから」
 恵利が記録ノートをめくる。
「八月三十一日に店にいた人を、思い出せるだけ書く。依茉、名前を挙げて」
「えっと、啓信くんはいた」
「もちろん。僕は青葉焼き三枚食べた」
「一人一枚って言われてたのに?」
「去年の僕は今の僕より若かった」
「一年前だろ」
 賢多が言う。
「ほかには?」
 依茉は考えながら、近所の小学生、商店街の人、同じ中学の先輩の名前を挙げた。そして最後に言う。
「英利子さんもいた」
 英利子は目をそらした。
「いたわよ」
「何か覚えてる?」
「覚えてない」
 即答だった。
 智は違和感を覚えた。英利子は、自分が関わったものを忘れない。掲示板の端に貼られたポスターのことを一年近く言い続ける人間が、灯食堂で何かをしたなら忘れるはずがない。
 依茉は責めなかった。
「覚えてないなら、無理に言わなくていいよ」
「……そういうところが、ずるいのよ」
 英利子が小さく言った。
「責めてくれたほうが、言い返せるのに」
 狭い店の中に沈黙が落ちた。
 英利子は鞄から一枚の紙を取り出した。折り目が何度もつき、角が丸くなっている。開くと、青葉焼きの絵と短い文章が書かれていた。
「去年、文乃さんに頼まれて、店のポスター案を描いたの。『この味を残したいから、若い人の絵で知らせたい』って。でも私、そのころ美術部のコンクールで頭がいっぱいで、こんな小さな店のポスターなんてって、少し思ってた」
 英利子の指が紙の端をつかむ。
「文乃さんは、それでも褒めてくれた。才能があるねって。私、うれしかったのに素直に言えなくて、『もっと大きな場所で飾られる絵を描くから』って言った。そしたら文乃さん、『じゃあ、この店は帰ってくる場所だね』って笑った」
 依茉は静かに聞いている。
「その日、文乃さんがレシピノートに何か挟んでた。私のポスター案かもしれない。後でちゃんとしたものを描いて渡すつもりだった。でも店が休みになって、渡せなくなった」
「だから未練がましかったのか」
 啓信がぽつりと言った。
 賢多が肘で小突く。
「言い方」
 英利子は怒らなかった。
「そうよ。私は未練がましいの。掲示板の端の件も、本当はポスターを見てもらえなかったのが悔しかっただけ」
 智は英利子の紙を見た。
「そのポスター案、今回使おう」
「え?」
「文乃さんの店に帰ってきた絵なんだろ。今の絵と合わせればいい」
 依茉もうなずいた。
「新しいポスターのどこかに、去年の絵を入れよう。未練じゃなくて、続きを描けばいいと思う」
 英利子は唇を結び、ふいに笑った。
「依茉、今の言い方、ずるいわ」
「ごめん」
「褒めてるの」
 そのとき、入口で黒猫が鳴いた。
 声に導かれるように、智はレジ横の古い掲示板を見た。画鋲の跡が並ぶ端に、色あせたメモが一枚だけ残っていた。
「八月三十一日。傘の子に、明日の味を預ける」
 智は依茉を見た。
 依茉の顔から、血の気が引いていた。