翌日から、三年二組の教室は、放課後だけ小さな作業場になった。
智は希望者全員の作業表を作った。誰がいつ来られるか、何が得意か、当日屋台に立つ六名はどの時間にどの作業をするか。紙に書いて掲示すると、恵利が「見やすい」とだけ言った。その一言は、百点満点の答案よりうれしかった。
依茉は思い出カードを集めた。昼休みに各教室を回り、青葉焼きにまつわる話を書いてもらう。「特にない」と言っていた一年生も、依茉が「味じゃなくても、誰と食べたかでもいいよ」と言うと、鉛筆を持ち直した。
カードには、たくさんの青葉町が詰まっていた。
塾の帰りに父親が買ってくれた。
部活で負けた日に、先輩が半分くれた。
祖父が入院する前、最後に外で食べた。
母親が怒っていたのに、青葉焼きを一口食べたら笑ってしまった。
そして、あるカードにはこう書かれていた。
「灯食堂で、透明な存在だった私に、文乃さんが『おかえり』と言ってくれた」
名前はなかった。
依茉はそのカードを長く見ていた。
「誰だろう」
智が聞くと、依茉は首を横に振った。
「わからない。でも、名前を書きたくない気持ちはわかる」
「透明な存在って、どういうことだと思う」
「いるのに、いないみたいに扱われることかな」
依茉はカードを封筒に入れた。
「でも、文乃さんには見えてたんだと思う」
その横で、英利子はポスターを描いていた。
画用紙の中央に、青葉焼きを持つ黒猫。背景には黄色い傘。文字は灯食堂のメニュー札を参考にした、温かい手書き風だ。
うまい。誰が見てもそう思う出来だった。
ただ、黒猫だけが妙に美形だった。目は宝石のように輝き、毛並みは絹のようで、完全に主役のポーズを取っている。
「英利子」
賢多が言った。
「これ、青葉焼きの宣伝だよな」
「そうよ」
「黒猫の写真集発売のお知らせに見える」
「だって、この子、描きがいがあるんだもの」
「青葉焼きが脇役になってる」
英利子は筆を置き、頬を膨らませた。
「わかったわよ。青葉焼きをもっと眩しくする」
「眩しい食べ物は少し怖い」
啓信が横から言った。
「でも僕は食べる」
「お前は何でも食べるだろ」
智は作業表から目を上げた。
「当日の試食は一人一枚まで。啓信、勝手に三枚食べるなよ」
「なぜ未来の僕を疑う」
「昨日、試作用のキャベツを生で食べてたから」
「素材の声を聞いてた」
「腹の声だろ」
笑いが起きる。
こうした笑いの中で、依茉は少しずつ自分の意見を言うようになった。
「英利子さん、傘の黄色を少し薄くすると、青葉焼きが見えやすいかも」
「なるほど。私の才能に、依茉の目が加わるわけね」
「うん。あと、黒猫のまつ毛は少し減らしてもいいかも」
「そこは譲れない」
「譲って」
「一本だけ」
「十本」
「五本」
「じゃあ七本」
「依茉、交渉がうまくなったな」
智が言うと、依茉は少し得意そうに笑った。
「智くんの話し方を見てるから」
「俺はまつ毛の本数で交渉したことはない」
「これからあるかもしれない」
「ないと思う」
けれど、その日もレシピノートは見つからなかった。
文乃さんは病院から戻ると、記憶を頼りにたれを作ってみたが、首をひねった。
「何かが足りないんだよ。甘さじゃない。辛さでもない。舌の奥で、ふっと笑うような味」
「舌の奥で笑う味……」
啓信は真剣な顔でメモした。
「僕の胃ならわかるかもしれません」
「胃で考えるな」
賢多が即座に止める。
文乃さんは笑ったが、その目は寂しそうだった。
「レシピノートは、たしかにあったんだけどねえ。去年、店を閉める前に、誰かが持っていったのかもしれない」
「誰か?」
智の声が固くなる。
依茉がすぐに智の袖を軽く引いた。
「決めつけないで、聞こう」
智は息を吐いた。公平でありたいと思うほど、何かが欠けたときに犯人を探したくなる。その癖を、依茉は止めてくれた。
「そうだな。文乃さん、最後にノートを見た日を覚えていますか」
文乃さんは透明な電球の下で目を細めた。
「去年の八月三十一日。夏休みが終わらないでほしいって、子どもたちが店に集まった日だよ」
依茉の黄色い傘が、入口の隅で静かに光を受けていた。
智は希望者全員の作業表を作った。誰がいつ来られるか、何が得意か、当日屋台に立つ六名はどの時間にどの作業をするか。紙に書いて掲示すると、恵利が「見やすい」とだけ言った。その一言は、百点満点の答案よりうれしかった。
依茉は思い出カードを集めた。昼休みに各教室を回り、青葉焼きにまつわる話を書いてもらう。「特にない」と言っていた一年生も、依茉が「味じゃなくても、誰と食べたかでもいいよ」と言うと、鉛筆を持ち直した。
カードには、たくさんの青葉町が詰まっていた。
塾の帰りに父親が買ってくれた。
部活で負けた日に、先輩が半分くれた。
祖父が入院する前、最後に外で食べた。
母親が怒っていたのに、青葉焼きを一口食べたら笑ってしまった。
そして、あるカードにはこう書かれていた。
「灯食堂で、透明な存在だった私に、文乃さんが『おかえり』と言ってくれた」
名前はなかった。
依茉はそのカードを長く見ていた。
「誰だろう」
智が聞くと、依茉は首を横に振った。
「わからない。でも、名前を書きたくない気持ちはわかる」
「透明な存在って、どういうことだと思う」
「いるのに、いないみたいに扱われることかな」
依茉はカードを封筒に入れた。
「でも、文乃さんには見えてたんだと思う」
その横で、英利子はポスターを描いていた。
画用紙の中央に、青葉焼きを持つ黒猫。背景には黄色い傘。文字は灯食堂のメニュー札を参考にした、温かい手書き風だ。
うまい。誰が見てもそう思う出来だった。
ただ、黒猫だけが妙に美形だった。目は宝石のように輝き、毛並みは絹のようで、完全に主役のポーズを取っている。
「英利子」
賢多が言った。
「これ、青葉焼きの宣伝だよな」
「そうよ」
「黒猫の写真集発売のお知らせに見える」
「だって、この子、描きがいがあるんだもの」
「青葉焼きが脇役になってる」
英利子は筆を置き、頬を膨らませた。
「わかったわよ。青葉焼きをもっと眩しくする」
「眩しい食べ物は少し怖い」
啓信が横から言った。
「でも僕は食べる」
「お前は何でも食べるだろ」
智は作業表から目を上げた。
「当日の試食は一人一枚まで。啓信、勝手に三枚食べるなよ」
「なぜ未来の僕を疑う」
「昨日、試作用のキャベツを生で食べてたから」
「素材の声を聞いてた」
「腹の声だろ」
笑いが起きる。
こうした笑いの中で、依茉は少しずつ自分の意見を言うようになった。
「英利子さん、傘の黄色を少し薄くすると、青葉焼きが見えやすいかも」
「なるほど。私の才能に、依茉の目が加わるわけね」
「うん。あと、黒猫のまつ毛は少し減らしてもいいかも」
「そこは譲れない」
「譲って」
「一本だけ」
「十本」
「五本」
「じゃあ七本」
「依茉、交渉がうまくなったな」
智が言うと、依茉は少し得意そうに笑った。
「智くんの話し方を見てるから」
「俺はまつ毛の本数で交渉したことはない」
「これからあるかもしれない」
「ないと思う」
けれど、その日もレシピノートは見つからなかった。
文乃さんは病院から戻ると、記憶を頼りにたれを作ってみたが、首をひねった。
「何かが足りないんだよ。甘さじゃない。辛さでもない。舌の奥で、ふっと笑うような味」
「舌の奥で笑う味……」
啓信は真剣な顔でメモした。
「僕の胃ならわかるかもしれません」
「胃で考えるな」
賢多が即座に止める。
文乃さんは笑ったが、その目は寂しそうだった。
「レシピノートは、たしかにあったんだけどねえ。去年、店を閉める前に、誰かが持っていったのかもしれない」
「誰か?」
智の声が固くなる。
依茉がすぐに智の袖を軽く引いた。
「決めつけないで、聞こう」
智は息を吐いた。公平でありたいと思うほど、何かが欠けたときに犯人を探したくなる。その癖を、依茉は止めてくれた。
「そうだな。文乃さん、最後にノートを見た日を覚えていますか」
文乃さんは透明な電球の下で目を細めた。
「去年の八月三十一日。夏休みが終わらないでほしいって、子どもたちが店に集まった日だよ」
依茉の黄色い傘が、入口の隅で静かに光を受けていた。


