夕方、智と依茉、啓信、賢多、英利子、恵利の六人は、駅前通りの角にある灯食堂の前に立っていた。
夏の湿った風が閉まったガラス戸を撫でている。赤いのれんはなく、入口の上には丸い透明な電球が一つ下がっていた。埃をかぶり、夕焼けを鈍く映している。
「透明な電球って、点いてないと本当に透明な存在だね」
啓信が言った。
「点くと急に主役になる」
「今日は主役を探しに来たんだ」
智は坂井先生から預かった鍵を取り出した。文乃さんは病院帰りで休んでいるため、店の中の整理を第三中の生徒に任せる許可をくれた。古い物を勝手に捨てないこと、火は使わないこと、日が暮れる前に帰ること。それが条件だった。
ガラス戸を開けると、鼻の奥に懐かしい匂いが広がった。
油、木の棚、甘い味噌の残り香。誰かの「ただいま」と「おかわり」が、壁の隙間にまだ挟まっているようだった。
依茉は一歩入って、胸に手を当てた。
「ここ、覚えてる。小さいころ、お母さんと来た。私、青葉焼きの端っこだけ先に食べて、文乃さんに笑われた」
「端っこ、うまいよな」
智が言うと、依茉は驚いたように顔を上げた。
「智くんも?」
「俺は、たれが焦げたところから食べる」
「わかる」
二人の声が重なった。
啓信が大げさに両手を広げる。
「出ました、青葉焼き端っこ同盟。僕は全部同時に食べる派です。無限胃袋だから」
「無限胃袋は黙って棚を見ろ」
賢多が指示を出す。
「探すのはレシピノート。古い大学ノート、料理メモ、缶に入った紙もあり得る。場所は厨房、戸棚、レジ周り、二階の物置。恵利、記録を頼める?」
「もう書いてる」
恵利は小さなノートを開いていた。表紙には「灯食堂捜索記録」とある。
英利子は壁のメニュー札を眺めていた。
「この手書き文字、いいわね。線が揺れてるのに、味がある。私のポスターに使える」
「使うなら許可を取れよ」
智が言う。
「わかってるわよ。私は才能を活かすけど、盗用はしない美少女だから」
「最後の一言で全部台無しだな」
賢多がつぶやいた。
依茉は厨房の入口で立ち止まった。ステンレスの台、古い鉄板、壁に掛けられたおたま。何も動かないのに、そこだけ時間が止まっている。
智は依茉の横に立った。
「無理しなくていい」
「ううん。大丈夫。ただ、ここって、誰かの毎日が詰まってるから、急に開けていいのかなって」
「だから記録する。どこに何があったか、元に戻せるように」
依茉は小さくうなずいた。
「智くんは、そういうところ、安心する」
智は返事に迷った。褒められたのか、ただ事実を言われたのか。どちらにしても耳の先が熱くなった。
「依茉は、誰かの気持ちを置いていかないところが助かる」
依茉は目を丸くし、それから少し笑った。
「じゃあ、二人で一人前かな」
「いや、二人で二人前だろ」
「青葉焼きの話?」
「違う」
二人が笑ったとき、足元を黒猫がすり抜けた。
猫は厨房の奥にある小さな扉の前で止まり、前足で叩く。床下収納だった。
「黒猫に導かれて、ついに宝の扉へ!」
啓信が飛んでくる。
「大げさに言うな。床下収納だ」
智が取っ手を引くと、古い鍋、漬物石、新聞紙に包まれた瓶が並んでいた。奥に錆びた缶がある。
恵利が懐中電灯を向けた。電池が弱いのか、光は黄色く濁っている。
「うわ、苦い懐中電灯」
啓信が顔をしかめた。
「光に味はない」
「これはある。見てるだけで舌の奥が苦い」
「電池が弱いだけだ」
賢多が缶を引き寄せた。
中には古いレシートやメモ、写真が入っていた。だが、レシピノートはない。
依茉が写真を一枚手に取った。
若い文乃さんが、店の前で男の子と女の子に青葉焼きを渡している。男の子は口いっぱいに頬張り、女の子は傘を差して笑っている。傘は今の依茉のものと同じ黄色だった。
「これ……私のお母さんだ」
依茉の指が震えた。
依茉の母親は数年前から遠くの市で働いている。依茉は父親と祖母と暮らしていた。明るく振る舞う日もあるが、放課後、校門で親子連れを見かけると歩幅が少し遅くなることを、智は知っていた。
依茉は写真の端を撫でた。
「この傘、お母さんが使ってたんだ。私、ただのお下がりだと思ってた」
黒猫が鳴いた。
灯食堂の透明な電球が、風もないのに小さく揺れた。
夏の湿った風が閉まったガラス戸を撫でている。赤いのれんはなく、入口の上には丸い透明な電球が一つ下がっていた。埃をかぶり、夕焼けを鈍く映している。
「透明な電球って、点いてないと本当に透明な存在だね」
啓信が言った。
「点くと急に主役になる」
「今日は主役を探しに来たんだ」
智は坂井先生から預かった鍵を取り出した。文乃さんは病院帰りで休んでいるため、店の中の整理を第三中の生徒に任せる許可をくれた。古い物を勝手に捨てないこと、火は使わないこと、日が暮れる前に帰ること。それが条件だった。
ガラス戸を開けると、鼻の奥に懐かしい匂いが広がった。
油、木の棚、甘い味噌の残り香。誰かの「ただいま」と「おかわり」が、壁の隙間にまだ挟まっているようだった。
依茉は一歩入って、胸に手を当てた。
「ここ、覚えてる。小さいころ、お母さんと来た。私、青葉焼きの端っこだけ先に食べて、文乃さんに笑われた」
「端っこ、うまいよな」
智が言うと、依茉は驚いたように顔を上げた。
「智くんも?」
「俺は、たれが焦げたところから食べる」
「わかる」
二人の声が重なった。
啓信が大げさに両手を広げる。
「出ました、青葉焼き端っこ同盟。僕は全部同時に食べる派です。無限胃袋だから」
「無限胃袋は黙って棚を見ろ」
賢多が指示を出す。
「探すのはレシピノート。古い大学ノート、料理メモ、缶に入った紙もあり得る。場所は厨房、戸棚、レジ周り、二階の物置。恵利、記録を頼める?」
「もう書いてる」
恵利は小さなノートを開いていた。表紙には「灯食堂捜索記録」とある。
英利子は壁のメニュー札を眺めていた。
「この手書き文字、いいわね。線が揺れてるのに、味がある。私のポスターに使える」
「使うなら許可を取れよ」
智が言う。
「わかってるわよ。私は才能を活かすけど、盗用はしない美少女だから」
「最後の一言で全部台無しだな」
賢多がつぶやいた。
依茉は厨房の入口で立ち止まった。ステンレスの台、古い鉄板、壁に掛けられたおたま。何も動かないのに、そこだけ時間が止まっている。
智は依茉の横に立った。
「無理しなくていい」
「ううん。大丈夫。ただ、ここって、誰かの毎日が詰まってるから、急に開けていいのかなって」
「だから記録する。どこに何があったか、元に戻せるように」
依茉は小さくうなずいた。
「智くんは、そういうところ、安心する」
智は返事に迷った。褒められたのか、ただ事実を言われたのか。どちらにしても耳の先が熱くなった。
「依茉は、誰かの気持ちを置いていかないところが助かる」
依茉は目を丸くし、それから少し笑った。
「じゃあ、二人で一人前かな」
「いや、二人で二人前だろ」
「青葉焼きの話?」
「違う」
二人が笑ったとき、足元を黒猫がすり抜けた。
猫は厨房の奥にある小さな扉の前で止まり、前足で叩く。床下収納だった。
「黒猫に導かれて、ついに宝の扉へ!」
啓信が飛んでくる。
「大げさに言うな。床下収納だ」
智が取っ手を引くと、古い鍋、漬物石、新聞紙に包まれた瓶が並んでいた。奥に錆びた缶がある。
恵利が懐中電灯を向けた。電池が弱いのか、光は黄色く濁っている。
「うわ、苦い懐中電灯」
啓信が顔をしかめた。
「光に味はない」
「これはある。見てるだけで舌の奥が苦い」
「電池が弱いだけだ」
賢多が缶を引き寄せた。
中には古いレシートやメモ、写真が入っていた。だが、レシピノートはない。
依茉が写真を一枚手に取った。
若い文乃さんが、店の前で男の子と女の子に青葉焼きを渡している。男の子は口いっぱいに頬張り、女の子は傘を差して笑っている。傘は今の依茉のものと同じ黄色だった。
「これ……私のお母さんだ」
依茉の指が震えた。
依茉の母親は数年前から遠くの市で働いている。依茉は父親と祖母と暮らしていた。明るく振る舞う日もあるが、放課後、校門で親子連れを見かけると歩幅が少し遅くなることを、智は知っていた。
依茉は写真の端を撫でた。
「この傘、お母さんが使ってたんだ。私、ただのお下がりだと思ってた」
黒猫が鳴いた。
灯食堂の透明な電球が、風もないのに小さく揺れた。


