眩しい傘の下で、透明な相棒

 その日の放課後、三年二組の教室では、帰り支度の音ではなく、机を動かす音と椅子の脚が床をこする音が続いていた。
 夏祭りの手伝い希望者は三十二人もいた。理由はさまざまだ。青葉焼きを食べたい。屋台に立ってみたい。内申に書けるかもしれない。文乃さんに昔世話になった。なかには「夏休みが終わらない気分になりたいから」とだけ書いた者もいる。たぶん啓信だ。
 坂井先生は教卓の前で出席票を見ながら、困った顔をしていた。
「商店街から、当日屋台に立つのは六名までと言われている。火を使うし、人が多すぎると危ない。今日の話し合いで候補を決めたい」
「先生」
 智は手を挙げた。
「選ぶ基準を先に決めないと、不公平になります。希望理由、当日できる作業、責任を持てる時間。この三つは確認したいです」
 教室が少し静かになった。智の声は大きくない。けれど筋道を立てて話すとき、机の上に定規をまっすぐ置くように、聞く側の気持ちを整えるところがあった。
「なるほど。ほかに意見はあるか」
 坂井先生がうなずくと、窓際の席で依茉が小さく手を挙げた。
「選ばれなかった人にも、できることがあるといいと思います」
 何人かが振り向いた。
 依茉は一度息を吸い、視線を落とさずに続ける。
「六人だけで作ると、青葉焼きを好きな人の気持ちが入りきらないかもしれません。思い出を書いてもらうカードを集めるとか、宣伝の絵を描くとか、当日以外で手伝えることもあると思います」
 教室の隅で、英利子が髪をかき上げた。
「宣伝の絵なら私が描けるわよ」
 英利子は美術部で、コンクールの常連だった。立ち姿も声の通り方も目を引くのに、本人がそれをわかりすぎているせいで、廊下で転んだときまで「今の角度、惜しかったわ」と言い、周囲を困らせたことがある。クラスでは尊敬とあきれを込めて、残念美少女と呼ばれている。
「ただし、去年の文化祭で私のポスターを掲示板の端に貼った件は忘れてないから」
「まだ言ってるのか」
 賢多がため息をついた。説明がわかりやすく、揉めると自然に真ん中に立つ。今日も黒板の前に移動し、すでに「できること一覧」と書き始めていた。
「英利子の未練はあとで聞く。今は手伝いの種類を分ける」
「未練を議題にしないで」
「じゃあ、未練欄を作る?」
「作らないで」
 笑いが起き、教室の空気が少しやわらいだ。
 恵利は窓際で静かにメモを取っていた。人の意見に耳を傾け、単独作業になると驚くほど速い。去年の体育祭では、みんなが道具の数で混乱している間に、道具係のチェック表を一人で作り終えていた。
 賢多が整理した項目は、調理補助、会計、呼び込み、思い出カード集め、宣伝絵、材料確認、片付け。依茉の一言で、六人を選ぶ話は、三十二人それぞれの役割を探す話へ変わり始めていた。
 坂井先生が教卓に手を置く。
「では、当日屋台に立つ六名と、事前に協力する生徒を分けよう。公平に進める役として智、意見を聞き取る役として依茉。二人で候補案を作れるか」
「俺たちですか」
 智は思わず依茉を見た。
 依茉も智を見た。黄色い傘は机の横に立てかけられ、濡れた布地が蛍光灯を淡く返している。
「私は……できるなら、やります」
 依茉の声は少し震えたが、最後まで消えなかった。
「俺もやります。ただ、二人だけで決めません。全員の希望を聞いて、条件を公開してから案を出します」
「固いなあ、智」
 啓信が笑う。
「でも、その固さで焼いた青葉焼きは噛みごたえがありそう」
「それは失敗だ」
 依茉が口元を押さえて笑った。
 そのとき、教室の後ろの窓が少し開き、黒猫が顔を出した。
「えっ、ここ三階だよね?」
 啓信が椅子から立ち上がる。
 黒猫は窓枠を器用に歩き、依茉の傘の先に鼻を寄せた。そして智の机に置かれた希望票を一枚、前足で押す。
 票には、恵利の字でこう書かれていた。
「灯食堂の古いレシピノートを探す手伝いがしたい」
 智は目を細めた。
 青葉焼きの味噌だれは、文乃さんしか詳しい配合を知らないと聞いている。もしレシピが見つからなければ、復活といっても似た味にしかならない。
 依茉は黒猫に向かってささやいた。
「案内してくれるの?」
 黒猫は、遅い、とでも言うように背を向けた。