七月の朝、青葉町立第三中学校の朝礼台には、校長先生より先に黒猫が座っていた。
前足をそろえ、尻尾をきちんと巻き、いかにも「本日の朝礼は私が進めます」と言いたげな顔で全校生徒を見下ろしている。
夜の雨を吸った校庭から、土と草の匂いが立っていた。生徒たちは濡れた傘を閉じ、靴についた泥を落としながら、学年ごとの列に並んでいく。三年二組の列の端に立った智は、通学バッグの紐を握り直した。
黒猫が、こちらを見た。
そう感じただけかもしれない。けれど智は、胸の奥を爪先でちょんと押されたような気がした。
「智、あれ、先生?」
隣の啓信が、朝礼台を指さして小声で聞いた。
「猫だ」
「校長代理?」
「猫だ」
「じゃあ、代理猫長」
「偉そうな響きにするな」
啓信は何かを見つけると、まず近づく。昨日も理科室の掃除中に棚の奥から古い懐中電灯を見つけ、点灯実験を始めて担任の坂井先生に止められたばかりだった。止められた本人は「放課後にやればいいんですね」と目を輝かせ、坂井先生は額に手を当てていた。
今日の啓信も、黒猫の正体を知りたくてたまらない顔をしている。
体育館の入口から、校長先生と坂井先生が小走りで出てきた。校長先生は朝礼台の前で黒猫と向き合い、しばらく見つめ合ったあと、客に席を譲ってもらうように腰をかがめた。
「すみません。少しだけ、こちらを使わせてください」
黒猫はその丁寧さを気に入ったのか、ふわりと台から降りた。そして生徒の列の間をまっすぐ歩き、智の靴先の前で一度止まった。
濡れた土の匂いに、なぜか焼きそばの残り香が混じった。
黒猫は智の靴のつま先を鼻でつつき、今度は女子の列へ向かう。視線の先にいたのは、依茉だった。
依茉は黄色い傘を胸の前で抱えていた。外側は淡く、内側には小さな星の模様が散っている。雨粒をまとった布地が朝の光を反射し、傘だけが少し早く夏になったみたいに眩しかった。
黒猫が依茉の足元に座ると、依茉はそっとしゃがんだ。
「おはよう。校長先生の席、暖かかった?」
黒猫は短く鳴いた。
周りの女子たちが笑い、依茉も笑った。けれど智には、その笑いの奥にほんの少しだけ、置き忘れたものの影が見えた気がした。
智は公平でないことを見過ごせない。掃除当番が一人に偏れば名簿を見直し、給食の牛乳が足りなければ自分の分を机の中央に置き、じゃんけんではなく事情を聞く。だから、誰かが笑っているのに一歩だけ退いていると、気づいてしまう。
依茉は人の話を最後まで聞く。班決めで揉めたときも、誰が誰と組みたいかだけでなく、その理由まで聞いた。けれど自分の希望を言う番になると、声がすっと細くなる。
校長先生の咳払いで、朝礼が始まった。
「来月、青葉町商店街の夏祭りで、第三中学校から手伝いの生徒を募集します。今年は、駅前の古い食堂『灯食堂』の協力で、町のソウルフードを復活させる屋台を出します」
校庭がざわついた。
灯食堂。駅前通りの角にあった小さな店だ。赤いのれんと、入口に下がった丸い透明な電球。看板料理は青葉焼きだった。薄い生地にキャベツと鶏肉を包み、甘辛い味噌だれを塗って焼く。青葉町で育った子どもなら、一度はその匂いで腹を鳴らしたことがある。
だが店主の文乃さんが腰を痛め、去年の冬から店は休んでいる。のれんは外され、透明な電球も点かない。夜になると、店の前だけ春が逃げていったみたいに暗かった。
「ただし、当日屋台に立てる生徒は六名までです。希望者が多い場合は、放課後に説明を聞いたうえで決めます」
「選考って、食べ比べかな」
啓信が目を輝かせた。
「それは客側だろ」
「食べる能力だって役に立つ。僕は無限胃袋だから」
「胸を張るところがそこなのか」
智はあきれながらも、校長先生の言葉を聞き逃さなかった。
六名まで。選ばれる生徒がいれば、選ばれない生徒もいる。目立つ場所に立てる六人の向こうで、他の希望者が透明な存在みたいに扱われてしまうのは避けたい。
智は朝礼台のそばに座る黒猫を見た。
黒猫はまた、智を見ていた。
そして、依茉の眩しい傘の影へ歩いていった。
前足をそろえ、尻尾をきちんと巻き、いかにも「本日の朝礼は私が進めます」と言いたげな顔で全校生徒を見下ろしている。
夜の雨を吸った校庭から、土と草の匂いが立っていた。生徒たちは濡れた傘を閉じ、靴についた泥を落としながら、学年ごとの列に並んでいく。三年二組の列の端に立った智は、通学バッグの紐を握り直した。
黒猫が、こちらを見た。
そう感じただけかもしれない。けれど智は、胸の奥を爪先でちょんと押されたような気がした。
「智、あれ、先生?」
隣の啓信が、朝礼台を指さして小声で聞いた。
「猫だ」
「校長代理?」
「猫だ」
「じゃあ、代理猫長」
「偉そうな響きにするな」
啓信は何かを見つけると、まず近づく。昨日も理科室の掃除中に棚の奥から古い懐中電灯を見つけ、点灯実験を始めて担任の坂井先生に止められたばかりだった。止められた本人は「放課後にやればいいんですね」と目を輝かせ、坂井先生は額に手を当てていた。
今日の啓信も、黒猫の正体を知りたくてたまらない顔をしている。
体育館の入口から、校長先生と坂井先生が小走りで出てきた。校長先生は朝礼台の前で黒猫と向き合い、しばらく見つめ合ったあと、客に席を譲ってもらうように腰をかがめた。
「すみません。少しだけ、こちらを使わせてください」
黒猫はその丁寧さを気に入ったのか、ふわりと台から降りた。そして生徒の列の間をまっすぐ歩き、智の靴先の前で一度止まった。
濡れた土の匂いに、なぜか焼きそばの残り香が混じった。
黒猫は智の靴のつま先を鼻でつつき、今度は女子の列へ向かう。視線の先にいたのは、依茉だった。
依茉は黄色い傘を胸の前で抱えていた。外側は淡く、内側には小さな星の模様が散っている。雨粒をまとった布地が朝の光を反射し、傘だけが少し早く夏になったみたいに眩しかった。
黒猫が依茉の足元に座ると、依茉はそっとしゃがんだ。
「おはよう。校長先生の席、暖かかった?」
黒猫は短く鳴いた。
周りの女子たちが笑い、依茉も笑った。けれど智には、その笑いの奥にほんの少しだけ、置き忘れたものの影が見えた気がした。
智は公平でないことを見過ごせない。掃除当番が一人に偏れば名簿を見直し、給食の牛乳が足りなければ自分の分を机の中央に置き、じゃんけんではなく事情を聞く。だから、誰かが笑っているのに一歩だけ退いていると、気づいてしまう。
依茉は人の話を最後まで聞く。班決めで揉めたときも、誰が誰と組みたいかだけでなく、その理由まで聞いた。けれど自分の希望を言う番になると、声がすっと細くなる。
校長先生の咳払いで、朝礼が始まった。
「来月、青葉町商店街の夏祭りで、第三中学校から手伝いの生徒を募集します。今年は、駅前の古い食堂『灯食堂』の協力で、町のソウルフードを復活させる屋台を出します」
校庭がざわついた。
灯食堂。駅前通りの角にあった小さな店だ。赤いのれんと、入口に下がった丸い透明な電球。看板料理は青葉焼きだった。薄い生地にキャベツと鶏肉を包み、甘辛い味噌だれを塗って焼く。青葉町で育った子どもなら、一度はその匂いで腹を鳴らしたことがある。
だが店主の文乃さんが腰を痛め、去年の冬から店は休んでいる。のれんは外され、透明な電球も点かない。夜になると、店の前だけ春が逃げていったみたいに暗かった。
「ただし、当日屋台に立てる生徒は六名までです。希望者が多い場合は、放課後に説明を聞いたうえで決めます」
「選考って、食べ比べかな」
啓信が目を輝かせた。
「それは客側だろ」
「食べる能力だって役に立つ。僕は無限胃袋だから」
「胸を張るところがそこなのか」
智はあきれながらも、校長先生の言葉を聞き逃さなかった。
六名まで。選ばれる生徒がいれば、選ばれない生徒もいる。目立つ場所に立てる六人の向こうで、他の希望者が透明な存在みたいに扱われてしまうのは避けたい。
智は朝礼台のそばに座る黒猫を見た。
黒猫はまた、智を見ていた。
そして、依茉の眩しい傘の影へ歩いていった。


