王子の隣は問題児

 翌朝六時二十八分。
 天城恒一は、人生で初めて他人を起こすために住宅街を歩いていた。
 私立聖クラウン学園二年A組、生徒会長。
 本来ならばこの時間、彼は自室で本日のスケジュール確認をし、栄養バランスの取れた朝食を摂り、制服の襟元を鏡で整えているはずだった。
 しかし現実は違う。
「なぜ私が……」
 
 如月ハル宅の前に立つ。
 昨日、勢いで「迎えに行きます」と言ってしまった。
 言ってしまった以上、責任は果たす。それが天城。
 たとえその結果、早朝の住宅街でインターホンを三回押しても応答がなく、近所の犬に不審者扱いされて吠えられても。
「……出ませんか」
 四回目を押そうとした、その時。
 ガラッ。
 二階の窓が開いた。
「おはよー、天城」
「如月! 起きていたなら早く」
「鍵閉まってるから、そっち行くね」
「は?」
 次の瞬間。
 如月ハル、パジャマ姿で、二階のベランダから、布団ごと落下した。
「なにをしているんですか!」
 ドサ!
 幸い、庭の低木と布団がクッションになった。
「いてて」
「いてて、じゃないだろ」
「俺の寝癖、すごい?」
「そこか!」
 確かに、寝癖はすごかった。芸術だった。もはや、鳥が巣を作れるレベル。
「普通に階段を使ってください!」
「母さんもう仕事行った」
「だからって飛び降りるな」
 天城はこの日、初めて本気で胃薬の必要性を感じた。
 如月は言った。
「制服どこだっけ」
「私に聞かないでください」
「じゃあ、着なくていい?」
「だめです。校則です」

 十分後。
「ネクタイをしてください」
「できない」
「昨日やりましたよね」
「忘れた」
 結局、玄関先でネクタイを締めてあげ、シャツを整えてあげ、靴下が左右違うことを指摘し、鞄の中身を確認し、宿題未提出を知り、母親でもここまでやるかという状態になった。
「如月」
「ん?」
「あなたはどうやって生きてきたんですか」
「顔で」
「……なるほど」

 登校中。
 如月は五分で三回道を逸れた。
「こっち近道っぽい」
「違います。寄り道しないでください」
 その後、野良猫を見つけて追いかけ、パン屋の匂いに吸い寄せられ、川辺で「この鳥でかい」と立ち止まり、結果──
「遅刻寸前です! 走ってください!」
「えー」
「いいから走る!」
 しかし、走り出した瞬間。
「これは……」
 速い。
 速すぎる。
 如月ハル、とんでもなく足が速かった。
「信じられない……」
「先いくねー」
「ちょ、待ちなさい!」

 校門前。
 女子生徒たちの悲鳴にも似た歓声が上がる。
「如月くん走ってる!」
「朝日が似合いすぎる!」
「え、後ろで天城様も走ってる! 豪華~!」
 結果、如月は余裕、天城は息切れ。
「な、なぜ……そんな体力が……」
「逃げ足だけは」
「……そういうことか。いや、でもすごい」

 一時間目、数学。
 授業開始五分前に、嫌な予感がした。
「如月」
「ん?」
「教科書は」
「ない」
「ノートは」
「ない」
「筆記用具は」
「……」
 結局、天城が予備を貸す。
「ありがとう、便利だな」
「便利扱いするな」

 さらに授業中。
「如月くん、この問題を」
 教師が指した。
 如月、立つ。黒板を見る。
 三秒後。
「わかりません」
「清々しい!」
 だが、女子たちはざわついた。
「正直……!」
「潔い……!」
「顔が、いい……!」
 この学園、顔面補正が強い。
 次の瞬間、如月は天城のノートをちらっと見て、
「あ、答えは5です」
「見るな!」

 昼休み。
 如月の席には女子が群がっていた。
「如月くん、お弁当作りすぎちゃって」
「如月くん、これ限定プリン」
「如月くん、放課後って何してるの?」
「……」
 天城は遠くから見ていた。
 すると如月は、もらったプリン三つとサンドイッチ二つを持って、当然のように生徒会室へ来た。
「天城、昼」
「なぜ」
「一人じゃ食べきれない」
「そのようですね」
「たまご、好き?」
「好きですけど」
「じゃ、あげる」
「……」
 なんだろう。調子が狂う。
 如月は基本的に適当なのに、こういう時だけ妙に自然だった。
「天城ってさ」
「なんでしょうか」
「ちゃんと昼休みも生徒会長してるよね」
「当然です」
「疲れない?」
「……」
 一瞬、天城は答えに詰まった。
 だがすぐに、
「規律を守るのは当然ですから」
「そっか」
 如月はそれ以上、聞かなかった。

 そして、午後の家庭科実習。
「本日の課題は、クッキーです」
「終わった」
 天城は思った。まだ始まっていないのに。
「如月、作れますか?」
「たぶん、全部入れればいい」
「なんで塩をそんなに!?」
「砂糖だと思った」
「待ってください。バターは溶かしてから」
「じゃ、電子レンジ強でいきま~す!」
 結果、黒煙、避難、廊下騒然。
「家庭科室で何が?」
「如月くんが?」
「また?」
 天城は粉まみれで立ち尽くした。
「やっぱり、こうなるのか……」

 しかし、その日の帰り道。
「悪かった」 
 如月が、不意に言った。
「……え?」
「迷惑かけた」
「…………」
「その、別に困らせたいわけじゃないんだけど」
「……」
 夕暮れの中、如月は少し照れくさそうに笑った。
「ちゃんとやろうとして、なんか失敗するだけ」
 その顔は、いつもの問題児じゃなかった。
 天城は小さくため息をついた。
「……明日は」
「うん?」
「筆記用具、前日に確認してください」
「そこ?」
「重要です」
「はいはい」
 その日、天城恒一は気づき始める。
 如月ハルは、どうしようもない問題児ではあるが、
 放っておけないタイプなのだと。

 そして翌日。
「天城ー」
「なんですか」
「弁当忘れた」
「…………」
 王子の苦労は、まだ序章だった。