『俺様王子が不器用についた最初で最後の優しい嘘。』

中学三年生、五月。


 ゴールデンウィークが明け、学校中が少しずつ浮足立ち始める時期。その理由は、一ヶ月後に控えた、中学最後の『体育祭』だった。


 六時間目の学活。教室には、窓から差し込む西日と、独特の熱気がこもっている。


「えー、それじゃあ次はペア競技、二人三脚の代表を決める。……誰かやりたい奴いるか?」


 担任の先生の声が響くけれど、クラス中が沈黙に包まれた。二人三脚といえば、息を合わせるのが難しい上に、全校生徒の前で転ぶリスクもある、少し不
人気な種目だ。


 私は、窓の外を眺めながら「誰か早く決まってくれないかな」なんて他人事のように考えていた。その時。


「……おい」


 隣の席から、低くて不遜な声がした。


 振り向くより先に、私の机にドン、と乱暴に手が置かれる。見なくてもわかる。雪弥くんだ。


「空音。お前、俺とこれ出るぞ」


「……え?」


 あまりに唐突な指名に、私の思考が停止する。


「あ、あの……雪弥くん? 私、足遅いし、運動神経も全然ないし……」


「関係ねーよ。俺がお前がいいっつってんだ。文句あんのか?」


 雪弥くんはそのまま、私の返事も待たずにガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。


「先生! 二人三脚、俺と星野で。決定な」


 教室内が一瞬で静まり返り、次の瞬間、女子たちの悲鳴に近いざわめきが上がった。


「ええっ、神崎くん!?」「嘘、星野さんと……!?」


 雪弥くんは周囲のブーイングなんてどこ吹く風で、私を見下ろして不敵にニヤリと笑った。


「いいか、空音。俺様のパートナーになれる光栄、噛み締めろよ。放課後、グラウンド裏に来い。特訓だ」


「えっ、ちょっと待って……!」


 叫ぶ私の声を無視して、彼は満足げに自分の席に戻り、足を組んでスマホを弄り始めた。


 これが、あの「地獄の(……今思えば、世界で一番甘い)特訓」の始まりだった。


 放課後。夕焼けに染まるグラウンドの隅っこ。


 雪弥くんは、どこから持ってきたのか、真っ赤なナイロン製の紐を指にくるくると巻きつけて待っていた。


「遅い。……一分の遅刻につき、練習一分追加な」


「……神崎くん、本当にやるの?」


「当たり前だろ。俺がやるって決めたら、やるんだよ。ほら、足出せ」


 彼は草の上に膝をつくと、私の右足と、自分の左足を、手際よく紐で結び始めた。


 彼の熱い指先が、私の足首に触れる。その距離、わずか数センチ。


「……っ」


 急に意識してしまって、鼓動が速くなる。雪弥くんは、私の足首を固定しながら、ふと手を止めた。


「……空音。お前、逃げるなよ」


「え?」


「この紐、解けるまで絶対離さねーからな。……もし俺が転びそうになっても、お前が俺を支えろ。わかったな」


 いつもの俺様口調なのに、なぜかその言葉は、祈りのように聞こえた。


 彼はそのまま、私の腰に強引に腕を回して、私を引き寄せる。


「……よし、行くぞ。いち、に、いち、に。……声出せ、空音!」


 ぎこちなく歩き出した、私たちの第一歩。


 この赤い紐が、私たちの運命を繋ぎ止め、そしていつか、残酷に引き裂くことになるなんて。


 私はまだ、彼に抱き寄せられた腕の熱さに、ただ顔を赤くしているだけだった。