『俺様王子が不器用についた最初で最後の優しい嘘。』

「……あ。神崎くん、おはよう」


 翌朝、校門の前で私を待っていた雪弥くんは、どこか少しだけ、いつもと空気が違って見えた。


 鋭い瞳も、不敵に上がる口角も、昨日までと同じはずなのに。彼の背負っている空気だけが、冷たく澄んだ冬の朝のように、どこか張り詰めている。


「遅い。……俺を五分も待たせた罪は重いぞ。罰として、今日は一日俺のそばを離れるな」


「それ、昨日も言ってたよ? 神崎くん、最近そればっかり」


 私が苦笑しながら答えると、彼は一瞬、弾かれたように目を見開いた。その瞳の奥を、言いようのない不安がよぎったのを私は見逃さなかった。


「……あ? そうだったか。……まあいい、俺がそうしたいんだから文句言うな」


 彼は私の肩を抱き寄せ、強引に校舎へと歩き出す。


 周囲の視線は相変わらず痛いけれど、彼の隣にいること、その腕の重みを感じることに、私の心は少しずつ慣れ始めていた。


というよりも、その強引さが心地よくなってしまっている自分に気づいて、顔が熱くなる。


 授業中も、雪弥くんは休み時間になるたびに私の教室に現れた。


 私の席の横にどっかと座り込み、私のノートを勝手に見たり、私の筆箱の中身を弄ったり。


「空音。……お前、俺の名前、呼んでみて」


 ふいに、雪弥くんが低い声でそう言った。


「え? 神崎くん?」


「神崎じゃねーだろ。雪弥、だ。何度も、何度でも呼べ。俺が満足するまで」


 その目は、いつもの冗談を言っている時とは違って、ひどく真剣だった。


 私は戸惑いながらも、「雪弥……くん」と小さく呟く。


「もっと。……もっとしっかり呼べよ」


「雪弥くん。雪弥くん。……これでいい?」


 何度も名前を呼ぶたびに、彼の強張っていた肩の力が少しずつ抜けていくのがわかった。


 雪弥くんは満足げに目を細めると、私の手を机の下でギュッと握りしめた。


 その時、気づいてしまった。


 私を握る彼の大きな手が、わずかに震えていることに。


「……雪弥くん? 手が、震えてる……?」


「あ? そんなわけねーだろ。……お前が可愛すぎて、興奮してんだよ」


 彼はいつもの俺様な台詞で茶化したけれど、その瞳は笑っていなかった。


 彼は、必死に私の声と、自分の名前を繋ぎ止めようとしているみたいに見えた。


「空音。もし俺が、お前の名前を呼ばなくなったら……その時は、お前から俺を呼べ。嫌だって言われても、絶対に呼べ。わかったな」


「……うん。約束するよ」


 その約束が、どれほど重くて残酷なものになるのか。


 この時の私はまだ、何も知らなかった。


 雪弥くんが自分の指先の震えを必死に隠しながら、心の中で私を忘れていく恐怖と戦っていたことも――。


 私たちはまだ、中学三年生の、青すぎる春の中にいた。