■緑視点
部屋の換気と、植物の水やり。
この間、留守中の管理を任されてから、ここには二、三日に一度は来ている。
今日は、バルスが帰ってくる日だから、本当は私が来る必要はない。
それなのに、つい足を向けてしまった。
……しかも今日は、午後休みまで取って。
帰ってきたバルスに、会えるかもしれないと思って。
窓を開けて、空気を入れ替える。
いつも通りの作業なのに、少しだけ落ち着かない。
寝室に置かれた植物に水をやり終えて、ふと、ベッドに視線が向いた。
……少しだけなら。
誰も見ていないし。
そう思って、そっと腰を下ろす。
かすかに残るバルスの匂いと、空気の中に漂う気配に包まれて、それだけで不思議と落ち着いてしまう。
――ほんと、何やってるんだろう。
自分でも、重症だなと思う。
でも、ここは私にとって、安心できる場所でもある。
そう思ってしまうのだから、仕方がない。
留守中の管理だけのときは、用事を済ませたらすぐに帰っている。
会えるわけでもないのに、長くいる理由なんてないから。
それでも、今日は。
――少しだけ、待っていてもいいよね。
そう思って、ベッドに体を横たえた。
久しぶりだな、ここでこうして休むの。
たぶん、一年ぶりくらい。
ぼんやりと天井を見上げていると、ふと、あのときのことがよぎる。
一年前。
たった一度だけ。
珍しく、酷く酒に酔っていた彼に、額と頬にキスをされたことがあった。
唇ではない。
それでも――
あれが、私の人生で初めてのキスで、26年間で唯一の経験だった。
あのときは、もしかしたら私のことを好きなのかもしれない――なんて、次に会う日まで、ずっとドキドキしていた。
……ハハ。
思い出すと、少しだけ笑えてしまう。
私に好意があるなんてありえない、考えればわかることなのに。
天国から突き落とされた気分だったなぁ。
あのときのバルスは、ちょうど獣人特有の発情期の終わりかけで、しかもひどく酔っていた。
私にキスしたことなんて、きれいさっぱり覚えていなかった。
……まぁ、今では、いい思い出だ。
だって。
あんなこと、
……もう、
――生涯、二度とないのだから。
――――――――――
■バルス視点
ベッドで気持ちよさそうに眠るミドリを見下ろし、バルスは、なんとも言えないため息をついた。
――普通、寝るか?
適齢の男の寝室で、しかもベッドで。
オレが、どれだけ理性を総動員して耐えていると思ってるんだ。
のんきな寝顔に、八つ当たりに近い苛立ちすら覚える。
ミドリがこうしてベッドで眠るのは、これが初めてじゃない。
もう、数回にはなるはずだ。
そのたびに、シーツに残る彼女の匂いに、一人で悶々とする夜を過ごすことになる。
触れようと思えば、触れられる距離。
それでも、手を伸ばしかけたところで、いつも同じように理性がそれを止める。
――馬鹿か、オレは。
自嘲気味に、苦笑する。
意識すらされていない相手に手を出せば、それはもう犯罪だ。
何より、彼女が傷つく姿は見たくない。
そして、そうなれば――今の関係ですら終わる。
そのとき、ミドリがゆっくりと目を開けた。
「起きたか?」
呆れたように声をかけると、ミドリはぼんやりとした視線でこちらを見て、ふわりと柔らかく笑う。
「おかえりな……」
そこまで言って、はっとしたように飛び起きた。
「ご、ごめんなさい! あの、違うの、掃除してたら眠くなって……つい……!」
真っ赤な顔で、何度も頭を下げる。
「怒ってますよね? その、ちゃんとシーツも洗うから――」
泣きそうな顔で謝るミドリを見て、バルスは一瞬、言葉を失った。
……ただ、見惚れていただけだ。
慌てて口を開く。
「いや、怒ってない。別に洗わなくていい」
それから、少し視線を逸らして続けた。
「それより……いつも、留守中の管理、助かってる」
「本当にお世話になってるから、他にも何かあったら言って下さいね」
――ほんと、そういうところだ。
謙虚で、遠慮深くて。
泣いた顔を見たのは、出会ったときくらいだ。
きっと、心配をかけたくないんだろう。
もっと頼ってくれていいのに。
そう思いながら――あの一件を思い出して、口を閉ざす。
半獣人には、発情期がある。
年に一度、二週間ほど。
その期間は――伴侶と認識した相手に対して、強く欲求が向く。
だからこそ、バルスはその時期、なるべく家に帰らないようにしていた。
――認識してしまったからだ。
ミドリを、伴侶として。
気持ちを伝えるつもりはなかった。
異世界で、家族とも二度と会えない彼女に、これ以上の負担をかけるわけにはいかない。
それに、ミドリの世界には、自分のような半獣人という存在はいない。
だから――最初から、望んでいない。
ただ。
理屈で納得できても、本能までは抑えきれない。
特に、あの時期は。
一年前の発情期の終わり際。
遠征から戻り、気を紛らわせるために飲んだ酒で、理性はほとんど飛んでいた。
帰宅した部屋に、留守中の管理をしていたミドリがいた。
引き寄せられるように近づいて、頬と、額に――キスをした。
せめてもの救いは、唇に触れる直前で、意識が途切れたことだ。
……だが、そのあと。
覚えていないふりをして、謝ることもできずに、今に至る。
バルスは、小さく息を吐いた。
――最低だな。
……それでも、あいつから目を離す気にはなれなかった。
――もう、とっくに限界なのに。
部屋の換気と、植物の水やり。
この間、留守中の管理を任されてから、ここには二、三日に一度は来ている。
今日は、バルスが帰ってくる日だから、本当は私が来る必要はない。
それなのに、つい足を向けてしまった。
……しかも今日は、午後休みまで取って。
帰ってきたバルスに、会えるかもしれないと思って。
窓を開けて、空気を入れ替える。
いつも通りの作業なのに、少しだけ落ち着かない。
寝室に置かれた植物に水をやり終えて、ふと、ベッドに視線が向いた。
……少しだけなら。
誰も見ていないし。
そう思って、そっと腰を下ろす。
かすかに残るバルスの匂いと、空気の中に漂う気配に包まれて、それだけで不思議と落ち着いてしまう。
――ほんと、何やってるんだろう。
自分でも、重症だなと思う。
でも、ここは私にとって、安心できる場所でもある。
そう思ってしまうのだから、仕方がない。
留守中の管理だけのときは、用事を済ませたらすぐに帰っている。
会えるわけでもないのに、長くいる理由なんてないから。
それでも、今日は。
――少しだけ、待っていてもいいよね。
そう思って、ベッドに体を横たえた。
久しぶりだな、ここでこうして休むの。
たぶん、一年ぶりくらい。
ぼんやりと天井を見上げていると、ふと、あのときのことがよぎる。
一年前。
たった一度だけ。
珍しく、酷く酒に酔っていた彼に、額と頬にキスをされたことがあった。
唇ではない。
それでも――
あれが、私の人生で初めてのキスで、26年間で唯一の経験だった。
あのときは、もしかしたら私のことを好きなのかもしれない――なんて、次に会う日まで、ずっとドキドキしていた。
……ハハ。
思い出すと、少しだけ笑えてしまう。
私に好意があるなんてありえない、考えればわかることなのに。
天国から突き落とされた気分だったなぁ。
あのときのバルスは、ちょうど獣人特有の発情期の終わりかけで、しかもひどく酔っていた。
私にキスしたことなんて、きれいさっぱり覚えていなかった。
……まぁ、今では、いい思い出だ。
だって。
あんなこと、
……もう、
――生涯、二度とないのだから。
――――――――――
■バルス視点
ベッドで気持ちよさそうに眠るミドリを見下ろし、バルスは、なんとも言えないため息をついた。
――普通、寝るか?
適齢の男の寝室で、しかもベッドで。
オレが、どれだけ理性を総動員して耐えていると思ってるんだ。
のんきな寝顔に、八つ当たりに近い苛立ちすら覚える。
ミドリがこうしてベッドで眠るのは、これが初めてじゃない。
もう、数回にはなるはずだ。
そのたびに、シーツに残る彼女の匂いに、一人で悶々とする夜を過ごすことになる。
触れようと思えば、触れられる距離。
それでも、手を伸ばしかけたところで、いつも同じように理性がそれを止める。
――馬鹿か、オレは。
自嘲気味に、苦笑する。
意識すらされていない相手に手を出せば、それはもう犯罪だ。
何より、彼女が傷つく姿は見たくない。
そして、そうなれば――今の関係ですら終わる。
そのとき、ミドリがゆっくりと目を開けた。
「起きたか?」
呆れたように声をかけると、ミドリはぼんやりとした視線でこちらを見て、ふわりと柔らかく笑う。
「おかえりな……」
そこまで言って、はっとしたように飛び起きた。
「ご、ごめんなさい! あの、違うの、掃除してたら眠くなって……つい……!」
真っ赤な顔で、何度も頭を下げる。
「怒ってますよね? その、ちゃんとシーツも洗うから――」
泣きそうな顔で謝るミドリを見て、バルスは一瞬、言葉を失った。
……ただ、見惚れていただけだ。
慌てて口を開く。
「いや、怒ってない。別に洗わなくていい」
それから、少し視線を逸らして続けた。
「それより……いつも、留守中の管理、助かってる」
「本当にお世話になってるから、他にも何かあったら言って下さいね」
――ほんと、そういうところだ。
謙虚で、遠慮深くて。
泣いた顔を見たのは、出会ったときくらいだ。
きっと、心配をかけたくないんだろう。
もっと頼ってくれていいのに。
そう思いながら――あの一件を思い出して、口を閉ざす。
半獣人には、発情期がある。
年に一度、二週間ほど。
その期間は――伴侶と認識した相手に対して、強く欲求が向く。
だからこそ、バルスはその時期、なるべく家に帰らないようにしていた。
――認識してしまったからだ。
ミドリを、伴侶として。
気持ちを伝えるつもりはなかった。
異世界で、家族とも二度と会えない彼女に、これ以上の負担をかけるわけにはいかない。
それに、ミドリの世界には、自分のような半獣人という存在はいない。
だから――最初から、望んでいない。
ただ。
理屈で納得できても、本能までは抑えきれない。
特に、あの時期は。
一年前の発情期の終わり際。
遠征から戻り、気を紛らわせるために飲んだ酒で、理性はほとんど飛んでいた。
帰宅した部屋に、留守中の管理をしていたミドリがいた。
引き寄せられるように近づいて、頬と、額に――キスをした。
せめてもの救いは、唇に触れる直前で、意識が途切れたことだ。
……だが、そのあと。
覚えていないふりをして、謝ることもできずに、今に至る。
バルスは、小さく息を吐いた。
――最低だな。
……それでも、あいつから目を離す気にはなれなかった。
――もう、とっくに限界なのに。



