バルスの部屋の前に立ち、私は自分の頬を両手でパンパンとはたいた。
ただの、お見舞いだ。
そう、友人として顔を見に来ただけ。
軽い感じで、普通に、何でもないみたいに。
泣いたらだめ。
顔が赤くなるなんてもってのほか。
変に期待するのも、もちろん駄目。
そう何度も自分に言い聞かせてから、私は小さく息を吸い、扉をトントンと何度かノックした。
けれど、返事はない。
寝ているのだろうかと思いながら、私はそっと扉を開けた。
そして、その瞬間、半年ぶりに見る実物のバルスの姿に、今まで必死で堪えていたものが一気に決壊した。
だめ。泣いたらだめ。
さっきあれだけ言い聞かせたのに、そんな理屈はまるで役に立たなくて、次から次へと涙が溢れてくる。
慌てて止めようとするのに、まったく止まらない。
すると、聞き慣れた低い声がした。
「……ミドリ?」
懐かしくて、大好きで、でも今は聞いた瞬間に余計に涙が出そうになる声だった。
私はその顔をまともに見られず、俯いたまま手で顔を押さえる。
「ご、ごめ……い、いま……」
そこまで言ったところで、結局言葉が続かなくなった。
ああもう、最悪だ。
こんな情けないところ、見られたくなかったのに。
バルスの小さなため息が聞こえる。
うわ、絶対呆れられてる。
というか私、何これ。めちゃくちゃうざい女じゃない?
泣きやめ、早く泣きやめ私、と心の中で必死に自分を叱りつける。
けれど、そんな私に向かって、バルスは低い声で言った。
「心配かけて、すまなかったな」
その気遣いが、今の私には完全に逆効果だった。
私は婚約を破棄されて以来の大泣きを、情けないことに、よりによってバルスの前で披露する羽目になった。
……ああ、完全に終わった。
もう絶対、鬱陶しいと思われてる。
今の私、きっとひどい顔をしてる。
そう思いながら、私はハンカチを顔に押し当てた。
「とにかく、そこに座れ。悪いな、まだ立つには支えがないと結構辛くてな。……落ち着いたか?」
優しすぎるその言葉に甘えて、私はこくりと頷き、ベッドの脇に置かれていた椅子へ腰を下ろした。
「元気だったか?」
また気遣うように声をかけられ、私は小さく何度も頷いた。少しずつ息を整えてから、どうにか本来の目的へ話を戻した。
「怪我……まだ、すごく痛いですか?」
「ああ、大丈夫だ。一時よりはだいぶましになった」
「それなら、良かったです。あの、ゆっくり休んで、早く良くなってね」
「ああ」
そこで会話が途切れる。
ど、どうしよう。
会話、会話。私、いつも何を話してたっけ。あれだけ会いたかったのに、こういうときに限って何も思い浮かばない。
焦った私は、とっさに口を開いた。
「こ、この間、バツーレ作ってね、すごく上手くできたの。今度……」
そこまで言ってから、私は自分が会話の落としどころを盛大に間違えたことに気づいた。
バツーレは、バルスたち狼族の故郷のおふくろの味みたいな料理で、彼の好物でもある。
まだ婚約者だった頃、団長の奥様に習って何度も練習したのも、全部、バルスに食べてもらいたかったからだ。
……もう、作る相手なんていないけど。
自分で言っていて虚しくなって、私は慌てて言い直した。
「えと、今度また作ってみようかなって思って。ハハハ……」
「そうか。それは楽しみだな」
「え?」
思わず顔を上げると、バルスはいつものように、少しだけぶっきらぼうな顔でこちらを見ていた。
「作ってくれるんだろう?」
「あ、はい、うん。あの、上手くいったら持ってきます」
そう答えながら、私は胸の奥がじわりと痛くなるのを感じていた。
たぶん、バルスは気を遣ってくれている。
無理のないところまで、友人に戻ろうとしてくれているのかもしれない。
そう、友人だって、死にかけるようなことがあれば泣くくらいする。
これ以上ボロを出さなければ、本当に邪魔にならない程度には、友人でいられるかもしれない。
私はその細い可能性に縋るみたいに、次の言葉を探した。
「お姉さんは、いつまでいるんですか?」
「来週までだな。その頃には俺も書類仕事くらいはできるようになってるだろうしな」
「あんまり、無理しないでくださいね」
「ああ」
苦笑まじりの返事が返ってくる。
そのとき、ふと私の視線が、バルスの寝ているベッドへ落ちた。
以前のものより、1.5倍くらい広いベッド。
そうだ。
これ、私がお嫁に来るためにって、バルスと一緒に選んだものだった。
そこまで思い至った瞬間、急に恥ずかしくなって、私は立ち上がった。
「じゃあ、私、帰ります」
「え、ああ、も……」
バルスが何かを言いかける。
「うん?」
「……いや、何でもない。またな」
またな。
たったそれだけの言葉なのに、胸がひそかに跳ねた。
また来てもいいってことだよね。
うん、大丈夫。もう何も望んだりしない。ほんの少し、こうして会えるだけでいい。
そう自分に言い聞かせながら、私は扉へ向かった。
そして部屋を出る直前、私ははっとして振り返った。
「あの、そうだ、バルス」
「ん?」
「おかえりなさい」
それだけ言って、今度こそ私は部屋を出た。
もう、これ以上は望まない。
そう決めたはずなのに――
胸の奥が、痛んだ。
ただの、お見舞いだ。
そう、友人として顔を見に来ただけ。
軽い感じで、普通に、何でもないみたいに。
泣いたらだめ。
顔が赤くなるなんてもってのほか。
変に期待するのも、もちろん駄目。
そう何度も自分に言い聞かせてから、私は小さく息を吸い、扉をトントンと何度かノックした。
けれど、返事はない。
寝ているのだろうかと思いながら、私はそっと扉を開けた。
そして、その瞬間、半年ぶりに見る実物のバルスの姿に、今まで必死で堪えていたものが一気に決壊した。
だめ。泣いたらだめ。
さっきあれだけ言い聞かせたのに、そんな理屈はまるで役に立たなくて、次から次へと涙が溢れてくる。
慌てて止めようとするのに、まったく止まらない。
すると、聞き慣れた低い声がした。
「……ミドリ?」
懐かしくて、大好きで、でも今は聞いた瞬間に余計に涙が出そうになる声だった。
私はその顔をまともに見られず、俯いたまま手で顔を押さえる。
「ご、ごめ……い、いま……」
そこまで言ったところで、結局言葉が続かなくなった。
ああもう、最悪だ。
こんな情けないところ、見られたくなかったのに。
バルスの小さなため息が聞こえる。
うわ、絶対呆れられてる。
というか私、何これ。めちゃくちゃうざい女じゃない?
泣きやめ、早く泣きやめ私、と心の中で必死に自分を叱りつける。
けれど、そんな私に向かって、バルスは低い声で言った。
「心配かけて、すまなかったな」
その気遣いが、今の私には完全に逆効果だった。
私は婚約を破棄されて以来の大泣きを、情けないことに、よりによってバルスの前で披露する羽目になった。
……ああ、完全に終わった。
もう絶対、鬱陶しいと思われてる。
今の私、きっとひどい顔をしてる。
そう思いながら、私はハンカチを顔に押し当てた。
「とにかく、そこに座れ。悪いな、まだ立つには支えがないと結構辛くてな。……落ち着いたか?」
優しすぎるその言葉に甘えて、私はこくりと頷き、ベッドの脇に置かれていた椅子へ腰を下ろした。
「元気だったか?」
また気遣うように声をかけられ、私は小さく何度も頷いた。少しずつ息を整えてから、どうにか本来の目的へ話を戻した。
「怪我……まだ、すごく痛いですか?」
「ああ、大丈夫だ。一時よりはだいぶましになった」
「それなら、良かったです。あの、ゆっくり休んで、早く良くなってね」
「ああ」
そこで会話が途切れる。
ど、どうしよう。
会話、会話。私、いつも何を話してたっけ。あれだけ会いたかったのに、こういうときに限って何も思い浮かばない。
焦った私は、とっさに口を開いた。
「こ、この間、バツーレ作ってね、すごく上手くできたの。今度……」
そこまで言ってから、私は自分が会話の落としどころを盛大に間違えたことに気づいた。
バツーレは、バルスたち狼族の故郷のおふくろの味みたいな料理で、彼の好物でもある。
まだ婚約者だった頃、団長の奥様に習って何度も練習したのも、全部、バルスに食べてもらいたかったからだ。
……もう、作る相手なんていないけど。
自分で言っていて虚しくなって、私は慌てて言い直した。
「えと、今度また作ってみようかなって思って。ハハハ……」
「そうか。それは楽しみだな」
「え?」
思わず顔を上げると、バルスはいつものように、少しだけぶっきらぼうな顔でこちらを見ていた。
「作ってくれるんだろう?」
「あ、はい、うん。あの、上手くいったら持ってきます」
そう答えながら、私は胸の奥がじわりと痛くなるのを感じていた。
たぶん、バルスは気を遣ってくれている。
無理のないところまで、友人に戻ろうとしてくれているのかもしれない。
そう、友人だって、死にかけるようなことがあれば泣くくらいする。
これ以上ボロを出さなければ、本当に邪魔にならない程度には、友人でいられるかもしれない。
私はその細い可能性に縋るみたいに、次の言葉を探した。
「お姉さんは、いつまでいるんですか?」
「来週までだな。その頃には俺も書類仕事くらいはできるようになってるだろうしな」
「あんまり、無理しないでくださいね」
「ああ」
苦笑まじりの返事が返ってくる。
そのとき、ふと私の視線が、バルスの寝ているベッドへ落ちた。
以前のものより、1.5倍くらい広いベッド。
そうだ。
これ、私がお嫁に来るためにって、バルスと一緒に選んだものだった。
そこまで思い至った瞬間、急に恥ずかしくなって、私は立ち上がった。
「じゃあ、私、帰ります」
「え、ああ、も……」
バルスが何かを言いかける。
「うん?」
「……いや、何でもない。またな」
またな。
たったそれだけの言葉なのに、胸がひそかに跳ねた。
また来てもいいってことだよね。
うん、大丈夫。もう何も望んだりしない。ほんの少し、こうして会えるだけでいい。
そう自分に言い聞かせながら、私は扉へ向かった。
そして部屋を出る直前、私ははっとして振り返った。
「あの、そうだ、バルス」
「ん?」
「おかえりなさい」
それだけ言って、今度こそ私は部屋を出た。
もう、これ以上は望まない。
そう決めたはずなのに――
胸の奥が、痛んだ。



