面識のなかった同級生と名前のない関係になったら、隙間なく重なる相性で離れられなくなった【完結】

「……えええっ!? 澪……それは、やっちゃいましたなあ」

 カラン、と杏奈の持つグラスの中で氷が間の抜けた音を立てた。
 彼女は元々大きな瞳をさらに見開き、信じられないものを見るような顔をしている。

 あの金曜日の夜から一週間近くが経った、仕事終わりの居酒屋。
 二人でカウンター席に並んで飲みながら、私はお酒の勢いを借りて、あの夜の芦田くんとの出来事を打ち明けてしまった。

 杏奈が驚くのも無理もない。
 ついこの間まで、私は元彼の拓巳と五年も付き合ってきたのだ。
 私にとって交際経験は拓巳だけで、穏やかで真面目だった彼とは、最後の最悪な浮気事件を除けば特にこれといった問題もなく、ゆるゆると平和な関係を続けてきた。

 だから、恋愛のことで杏奈に込み入った相談事をしたり、こんな風に度肝を抜くような報告で驚かせたりしたことは、今まで一度もなかったのだ。

「……わーどうしよう!」

 私は両手で頭を抱え込み、テーブルに突っ伏した。
 ほぼ面識のなかった相手と、一晩の関係を持ってしまうなんて。

「まあ、よくあるんじゃない? そういうことは」

 あっけらかんと励ましてくれる声が頭上から降ってくる。

(『よくある』のか……)

 拓巳とずっと付き合っていて、当然そういう関係になったのは彼だけだった私にとって、この状況はキャパシティを完全に超えている。

 そもそも、なんであんなにすんなりと彼の部屋へ行ってしまったのだろうか。
 自分でも理由はよくわからない。

 ただ、彼の纏う空気に吸い込まれるように――抗えず引き寄せられてしまったのだ。

 あの夜、そして朝方も。
 思い出そうとするだけで、頭がおかしくなりそうだ。
 あんな感覚は全部、経験したことがなかった。
 私は終始、自分を保つことができなかった。
 彼が経験豊富で、女性の扱いに慣れていて、だから、その……、『上手だった』ということだろうか?

 外では気怠げだった彼が、シーツの中でだけ見せた、熱を帯びた切実な表情。
 それが脳裏をよぎるたび、顔から火が出るんじゃないかと思うほど頬が熱くなる。

(芦田くんは、誘い方も自然だったし……ああいうことに、慣れてるのかな)

 あんな時間を、他の人ともいつも過ごしているのだろうか。
 そう想像しただけで、息が詰まるように苦しくなった。

(やばい、これ。だめだだめだ……)

 一晩のことだと思ってきっぱり忘れないと、とんでもない沼にはまってしまう。
 底なしの暗闇に足を取られるような錯覚に陥り、思わず身震いした。

「まさか……好きになっちゃった!?」

 黙り込む私の心中を察したかのように、杏奈が身を乗り出して聞いてくる。

「えっ!? いやいや、それは確実にダメってわかってるから……!!」

 慌てて顔を上げ、全力で首を横に振る。

「大丈夫……たぶん。連絡先も交換してないし……このままフェードアウトすれば……」

 自信なさげに声が小さくなってしまったが、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
 接点さえ持たなければ、一度きりの熱はいつか冷めるはずだ。

「ちょっと確認してみよ」

 おもむろに自分のスマホを取り出した杏奈は、迷うことなく誰かに電話をかけ始めた。

 相手は一、二コールですぐに出たようだ。

「あっ、藤崎くん? ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」

 電話の相手は、先日の飲み会で一緒だった藤崎くんだった。
 芦田くんと仲が良く、そして明らかに杏奈に好意を寄せている彼。

「芦田くんって、女遊び激しかったりする? ……うん、うん。あ、そーなんだ」

 杏奈は悪びれる様子もなく、彼に関する軽い身辺調査を始めた。

「いや、ちょっと気になっただけ。ありがとう、バイバイ!」

 ピッ。

 なんだか、向こうの最後の挨拶も聞いていなさそうな速さで、あっさりと通話を切る。

 藤崎くん、今頃ガッカリしてないかな。
 急に意中の子から電話がきたと思って飛びついただろうに、聞かれたのは芦田くんの話題だけで、あげく秒で切られてしまって……。
 不憫な彼に、心の中でこっそり手を合わせる。

「『わかんないけど、そこまでだらしないわけではないと思う』っていうのと、『あと今は仕事で忙しくて彼女はいらないって言ってたから、彼女いないのは本当だと思う』だって」

 杏奈はスマホをテーブルに置きながら、探り立ての情報を共有してくれた。

「……そうなんだ」

 同性の藤崎くんから見て、百パーセント遊び人というわけではないらしい。
 その事実に、少し胸を撫で下ろす自分がいた。

「それから、連絡はとってないんだ?」

「うん。テンパってて、連絡先も聞けなかった。……でも、テンパってなくても、聞かないほうがよかったかも」

 グラスの表面についた水滴を指先でなぞりながら、ポツリとこぼす。

 これ以上変に関わりを持ったら、あの温度を思い出して、またあの腕の中に戻りたくなってしまうかもしれない。
 まだ残っているこの熱が落ち着くまで、ただ待つしかない。

 冷えたレモンサワーを飲み込んで、心の奥で燻り続ける火種に、必死に蓋をした。