放課後、わたしは部活には行かず、コンビニに直行した。お姉さんからカードをもらったコンビニ。
ほかほかの肉まん片手に歩いて帰るくらいだから、近くに職場か自宅があるにちがいない。
きっとまた同じコンビニにやってくるはず。
わたしは雑誌を立ち読みしながら自動ドアが開くたびに様子をうかがった。
壱太にはまだなにも聞けていない。
壱太の知らない部分があって当然だし、壱太としては隠しているつもりもないことかもしれない。
わたしが駅でツグミたちと仲良くしているのを目撃したように、ささいなことを大げさに受け止めてしまった人がいるんだよ、きっと。
なにも頭には入ってこなかったが、一通りめぼしい本が見終わってしまったころだ。お姉さんは前と同じ事務服のままやって来た。
きょうはコーヒーだけを買って出ていく。
「すいません」
わたしはお姉さんがあまり遠くへ行ってしまわないうちに声をかけた。
お姉さんは自分が呼ばれたのかを確認するようにちらりと振り返ってわたしをみとめた。
「ああ、この前の……」
「はい。そうです。この前、カードを」
わたしはもらったカードを見せた。
その時の絵柄を覚えているかはわからないが、「それね」とお姉さんは表情を変えずうなずいた。
「わたし、導かれているのでしょうか」
「そうね……思い当たる節でも?」
お姉さんはフタの飲み口を開けてコーヒーをひとくち飲んだ。
あしらわずに、ちゃんとわたしの話を聞いてくれるつもりだ。かいつまんでわたしはこれまでのことを話した。
ときおり相づちを打ちながら聞いていたが、ナイフのくだりでお姉さんは首をかしげた。
「ナイフの解釈はどうかしらね。人魚姫の物語では、仲間の人魚が人魚姫にナイフを刺すんじゃなくて、渡すの」
「渡す?」
「このナイフで王子を刺せば、あなたは人魚に戻って今までどおり幸せに暮らせるというの。やっぱり、あなたのお友達は忠告してくれてるんだと思うわ」
少し、落胆している自分がいた。
戻ることが正しい道筋なのかと。
「でもね。人魚姫は王子を刺さなかった。自分のことより王子が幸せになることが一番の望みだった。たとえ良家のお嬢さんと結婚することになったとしても、自分は身を引いた方がいいと」
「そんな……」
みんなおとぎ話みたいにいい子ばかりじゃないよ。
黙って身を引くのがわたしなのはどうして?
壱太にとっての一番がわたしだとするなら、だれかにゆずる必要はない。
わたしの手にナイフが渡り、そのあとどうするかといったら――
とても不思議な感情が沸き起こってきた。
もしも壱太がわたしのバイトした給料をあてにして貢がせているのなら。
ナイフを壱太に突きつけて金を返せとせびりたい。
もしも壱太に本命の彼女がいたとするなら。
相手を特定して彼女にナイフを突き立てたい。
そもそも壱太にとっては初めからわたしは友達以上の存在ではなく、悪いことをしているつもりもないのなら。
このナイフを……このナイフを……
わたしはナイフを握りしめながら、恨みを持つ人に近づく。
一歩、一歩、歩くたびに激痛が走る。
人魚姫は人間の足を手に入れたが、歩くたびにナイフで突き刺されたような痛みを感じたというが、こういうことだったのかと腑に落ちた。
それはつまり、心の痛み。
そうまでしてたどり着いた先は崖の先端だった。
あれだけの恨みを抱えながら、果たされることなく絶望に変わっていった。
誰も刺すことができない。
そこから海へと飛び込み……
よく考えてみれば、人魚姫は溺れかけた王子の命を救ってはいるけど、王子に声を捧げたわけじゃない。
一方的に恋に落ち、魔女と取引をしたのだ。王子に近づくための方策を採っただけ。
自分が選ばれなかったからといって王子を刺すのはお門違い。
わかってるよ。
人魚姫は王子が幸せに暮らせればいいと願ったようだけど、わたしの心に渦巻くのはそんなきれいなものではなくて――
お姉さんはわたしの心の中を見透かしたようにいった。
『人魚姫は海の泡となる』
握りしめたカードがほのあたたかい。
見れば、またカードの絵柄が変わっていた。人魚姫の姿はなく、サンゴや海藻が揺らめく海底に泡があるだけだった。
お姉さんは静かに語りかけた。
「試すようなことをしてごめんなさい。そのカードは悪魔の呪いがかかっているの。邪悪な心を持つ者だけが呪われる。絵柄が変わっていったのはそのためよ」
「わたしに、邪悪な心が……」
たしかに、そうかもしれない。
カスミちゃんは嫉妬しているとか、壱太はわたしを利用しているとか、壱太の本命はわたしをあざ笑っているだろうとか、そういう薄暗い感情を邪悪というのかもしれない。
「でもだいじょうぶ。人魚姫はその後、空気の精霊となったの。300年毎日良い行いをして徳を積めば生まれ変われる、そう約束されたのよ。だからだいじょうぶ、あなたは導かれたから」
――あれから10年。
わたしはどこにいても空気みたいな存在だけど、それがわたしの性分にはあっていた。
悪目立ちせず、とりわけ好かれることもなく、平穏だった。
友達もいないから無駄にお金を使う必要もないし、そのお金は導かれたところへと収まっていく。
カスミちゃんとはずっと繋がっていた。
つい最近も壱太とツグミが結婚するという話題を提供してくれた。意地悪ではないよ。その話が破談になったからこそ教えてくれた。
壱太は相変わらず金遣いが荒く、ツグミの援助でなりたっていたらしいが、他の女性との間に子供ができたとかで、別れることになったのだとか。
でもそれが結婚式が執り行われる間際で、キャンセル代をツグミが背負うことになったようなのだ。
わたしはあの時からずっと大切にしているあのカードをひとなでした。
絵柄は変わらず海の泡のまま。
変わらないのはわたしから邪悪な心が消えたからだ、そう思いたかったがそうじゃない。
わたしはたった今もツグミのことをいい気味だと思ってしまった。
まだまだ徳を積むことが足りていないようだ。
早く生まれ変わりたい。
このカードはわたしだけの特別なものらしい。
あの時出会ったお姉さん――ニムラさんもわたしと出会ってから様々なことを吹っ切ることができて、幸運続きだという。
ニムラさんは幹部に昇格して、ちょっと遠い存在になってしまった。
けれどもたまに気にかけてくれる。あなたには素質があるって。
もっともっと徳を積むために、ツグミに声をかけよう。
彼女も導かれなくてはならない。
ほかほかの肉まん片手に歩いて帰るくらいだから、近くに職場か自宅があるにちがいない。
きっとまた同じコンビニにやってくるはず。
わたしは雑誌を立ち読みしながら自動ドアが開くたびに様子をうかがった。
壱太にはまだなにも聞けていない。
壱太の知らない部分があって当然だし、壱太としては隠しているつもりもないことかもしれない。
わたしが駅でツグミたちと仲良くしているのを目撃したように、ささいなことを大げさに受け止めてしまった人がいるんだよ、きっと。
なにも頭には入ってこなかったが、一通りめぼしい本が見終わってしまったころだ。お姉さんは前と同じ事務服のままやって来た。
きょうはコーヒーだけを買って出ていく。
「すいません」
わたしはお姉さんがあまり遠くへ行ってしまわないうちに声をかけた。
お姉さんは自分が呼ばれたのかを確認するようにちらりと振り返ってわたしをみとめた。
「ああ、この前の……」
「はい。そうです。この前、カードを」
わたしはもらったカードを見せた。
その時の絵柄を覚えているかはわからないが、「それね」とお姉さんは表情を変えずうなずいた。
「わたし、導かれているのでしょうか」
「そうね……思い当たる節でも?」
お姉さんはフタの飲み口を開けてコーヒーをひとくち飲んだ。
あしらわずに、ちゃんとわたしの話を聞いてくれるつもりだ。かいつまんでわたしはこれまでのことを話した。
ときおり相づちを打ちながら聞いていたが、ナイフのくだりでお姉さんは首をかしげた。
「ナイフの解釈はどうかしらね。人魚姫の物語では、仲間の人魚が人魚姫にナイフを刺すんじゃなくて、渡すの」
「渡す?」
「このナイフで王子を刺せば、あなたは人魚に戻って今までどおり幸せに暮らせるというの。やっぱり、あなたのお友達は忠告してくれてるんだと思うわ」
少し、落胆している自分がいた。
戻ることが正しい道筋なのかと。
「でもね。人魚姫は王子を刺さなかった。自分のことより王子が幸せになることが一番の望みだった。たとえ良家のお嬢さんと結婚することになったとしても、自分は身を引いた方がいいと」
「そんな……」
みんなおとぎ話みたいにいい子ばかりじゃないよ。
黙って身を引くのがわたしなのはどうして?
壱太にとっての一番がわたしだとするなら、だれかにゆずる必要はない。
わたしの手にナイフが渡り、そのあとどうするかといったら――
とても不思議な感情が沸き起こってきた。
もしも壱太がわたしのバイトした給料をあてにして貢がせているのなら。
ナイフを壱太に突きつけて金を返せとせびりたい。
もしも壱太に本命の彼女がいたとするなら。
相手を特定して彼女にナイフを突き立てたい。
そもそも壱太にとっては初めからわたしは友達以上の存在ではなく、悪いことをしているつもりもないのなら。
このナイフを……このナイフを……
わたしはナイフを握りしめながら、恨みを持つ人に近づく。
一歩、一歩、歩くたびに激痛が走る。
人魚姫は人間の足を手に入れたが、歩くたびにナイフで突き刺されたような痛みを感じたというが、こういうことだったのかと腑に落ちた。
それはつまり、心の痛み。
そうまでしてたどり着いた先は崖の先端だった。
あれだけの恨みを抱えながら、果たされることなく絶望に変わっていった。
誰も刺すことができない。
そこから海へと飛び込み……
よく考えてみれば、人魚姫は溺れかけた王子の命を救ってはいるけど、王子に声を捧げたわけじゃない。
一方的に恋に落ち、魔女と取引をしたのだ。王子に近づくための方策を採っただけ。
自分が選ばれなかったからといって王子を刺すのはお門違い。
わかってるよ。
人魚姫は王子が幸せに暮らせればいいと願ったようだけど、わたしの心に渦巻くのはそんなきれいなものではなくて――
お姉さんはわたしの心の中を見透かしたようにいった。
『人魚姫は海の泡となる』
握りしめたカードがほのあたたかい。
見れば、またカードの絵柄が変わっていた。人魚姫の姿はなく、サンゴや海藻が揺らめく海底に泡があるだけだった。
お姉さんは静かに語りかけた。
「試すようなことをしてごめんなさい。そのカードは悪魔の呪いがかかっているの。邪悪な心を持つ者だけが呪われる。絵柄が変わっていったのはそのためよ」
「わたしに、邪悪な心が……」
たしかに、そうかもしれない。
カスミちゃんは嫉妬しているとか、壱太はわたしを利用しているとか、壱太の本命はわたしをあざ笑っているだろうとか、そういう薄暗い感情を邪悪というのかもしれない。
「でもだいじょうぶ。人魚姫はその後、空気の精霊となったの。300年毎日良い行いをして徳を積めば生まれ変われる、そう約束されたのよ。だからだいじょうぶ、あなたは導かれたから」
――あれから10年。
わたしはどこにいても空気みたいな存在だけど、それがわたしの性分にはあっていた。
悪目立ちせず、とりわけ好かれることもなく、平穏だった。
友達もいないから無駄にお金を使う必要もないし、そのお金は導かれたところへと収まっていく。
カスミちゃんとはずっと繋がっていた。
つい最近も壱太とツグミが結婚するという話題を提供してくれた。意地悪ではないよ。その話が破談になったからこそ教えてくれた。
壱太は相変わらず金遣いが荒く、ツグミの援助でなりたっていたらしいが、他の女性との間に子供ができたとかで、別れることになったのだとか。
でもそれが結婚式が執り行われる間際で、キャンセル代をツグミが背負うことになったようなのだ。
わたしはあの時からずっと大切にしているあのカードをひとなでした。
絵柄は変わらず海の泡のまま。
変わらないのはわたしから邪悪な心が消えたからだ、そう思いたかったがそうじゃない。
わたしはたった今もツグミのことをいい気味だと思ってしまった。
まだまだ徳を積むことが足りていないようだ。
早く生まれ変わりたい。
このカードはわたしだけの特別なものらしい。
あの時出会ったお姉さん――ニムラさんもわたしと出会ってから様々なことを吹っ切ることができて、幸運続きだという。
ニムラさんは幹部に昇格して、ちょっと遠い存在になってしまった。
けれどもたまに気にかけてくれる。あなたには素質があるって。
もっともっと徳を積むために、ツグミに声をかけよう。
彼女も導かれなくてはならない。



