結局、夏休みの予定を立てるのに時間を費やしたせいで、その日の勉強時間は一時間もなかった。
勉強も真面目にしていたのはカイジくんだけで、私は解答を見ながら空欄を埋めていき、心乃ちゃんは飽きたのかピアノを弾いているし、清次郎くんは漫画をパラパラとめくりながら「ははっ」と笑い声を上げていた。
そんなある日、週二の診察でお医者さんからとあることを言われた。
「小野村さん、もし良かったら、明日から学校に行ってみませんか?」
「え?」
思わず間の抜けた声が出た。
「……学校、ですか?」
聞き返すと、お医者さんは穏やかに頷いた。
「はい。毎日でなくても構いません。週に一回でも、短い時間でも良いので」
「……」
頭の中が、一瞬で真っ白になる。
学校。
その言葉だけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられる気がした。
「もちろん、無理にとは言いませんよ」
お医者さんは私の表情を見て、少しだけ声のトーンを落とす。
「ただ、許可証も取りやすくなりますし、外に出る練習としては良い機会かもしれません」
外に出る、練習。
診察室を出た後も、まだ少しだけぼんやりしていた。
そういえば、ホームに来てから一度も電話していないことに気づき、ロビーの壁に寄り掛かりながらスマホでお母さんに電話を掛けると、すぐに出てくれた。
『もしもし、理世。どうしたの?』
「あ、お母さん……元気?」
『元気よ。理世は?調子どう?』
スマホ越しの声は、思っていたよりもずっと優しくて、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「……うん、まぁまぁ」
少しだけ間を空けて答えると、お母さんは「そっか」と安心したように息を吐いた。
ごめんね、とかホームのこととか、話したいことが沢山あったのに、喉に突っかかって出てきてくれない。
「うん、じゃあね」
通話を切ったあと、しばらくそのまま動けなかった。
スマホを握ったまま、天井を見上げる。
学校には行きたくないけど、外には出たい。
自分でも我儘だなぁと笑ってしまう。
「理世、こんなとこで何してるん?」
聞き慣れた声に、びくっと肩が揺れる。
振り返ると、いつものラフな格好のまま、椅子に座ってこちらを見ていた。
「心乃ちゃん」
「なんぞ?」
「さっき診察で学校行ってみないかって言われたんだけど……」
「うむ」
下校途中に買ってきてくれたらしい団子を貰ったので、もぐもぐと口に運ぶ。
みたらし団子で美味しい。
「で、どうするん?」
もぐもぐと団子を頬張りながら、心乃ちゃんは気軽に聞いてくる。
その軽さが、ちょっと羨ましい。
「……分かんない」
正直にそう答えると、心乃ちゃんは「行かなくても良いんじゃない?」とあっさり頷いた。
「無理して行っても、余計に悪化するだけ」
「そうなのかな……?」
不安げに聞き返すと、心乃ちゃんは串をくるくる回しながら、少しだけ視線を上げた。
「うーん……人による、かな」
さっきまでの即答とは違って、少しだけ考えるような口調だった。
「無理して行って、しんどくなるタイプもいる。逆に、ちょっと無理してでも行った方が楽になる人もいるよね。ちなみにウチは前者」
彼女は軽い口調で串をゴミ箱に突っ込むと、自販機でジュースを買った。
「理世の学校はいつ終業式?終業式だけ行って、さっさと外出許可証を貰おう」
なるほど、修了式だけ行くという手もあるのか。
「……それなら、まだマシかも」
という訳で終業式の日、ガタガタ震える足をなんとか動かし、学校の門をくぐる。
終業式では全校生徒が体育祭に集まるので、久々に見るクラスメイトがちらほらいた。
壇上に上がる校長先生の話を、私は入り口付近で膝を抱えながら聞いていた。
話の内容なんて、ほとんど頭に入ってこない。
ただ、ざわざわとした人の気配と、体育館特有のむわっとした空気だけが、やけに重く感じる。
(……無理かも)
喉の奥がきゅっと狭くなる。
少しでも気を抜いたら、このまま引き返してしまいそうだった。
(あと、ちょっと……)
自分に言い聞かせるように、ぎゅっと膝を抱えた。
壇上から拍手が起こる。
びくっと肩が跳ねて、思わず顔を上げた。
「……」
周りを見渡す。
知らない顔と、少しだけ見覚えのある顔。
誰も、私のことなんて見ていない。
当たり前だけど、それが少しだけ救いだった。
(……あれ)
ふと、視線の端に見覚えのある後ろ姿が映る。
同じクラスの子だ。
名前は――思い出せないけど、確か前の席の子。
その子は、隣の友達と小さく笑い合っていた。
普通の、いつもの光景。
私がいなかった時間なんて、なかったみたいに。
(……そっか)
胸の奥に、少しだけチクっとした感覚が走る。
でも同時に――
(私がいなくても、回るんだ)
どこか、ほっとした自分もいた。
また拍手が起こる。
終業式は、思っていたよりもあっけなく進んでいく。
「――以上で終業式を終わります」
その言葉が聞こえた瞬間、肩の力が一気に抜けた。
本当に、終わった。
気づけば、呼吸が少しだけ楽になっていた。
周りの生徒たちが立ち上がり、ざわざわと動き出す。
その流れに逆らうように、私はそっと立ち上がった。
(……帰ろ)
それ以上いる理由も、勇気もなかった。
担任の先生に挨拶を言ってから帰ろうとした時、先生に呼び止められた。
「小野村、夏休みに林間があるんだが―――」
「……すみません、無理です」
先生はそれ以上何も言わず、「そうか、気をつけて帰れよ」とだけ言って、他の生徒の方へ向かって行く。
外の空気は、思っていたよりもずっと軽かった。
ポケットの中のスマホが、微かに震える。
取り出してみると、グループメッセージからだった。
―――どや、みんな生きてる?
―――お疲れ様でした。こっちは少しかかりそうです
―――オレは丁度終わったところだ!
私もポチポチと文字を打ち込んだ。
―――こっちも終わった〜!
そう返すと、すぐに既読がついた。
心乃ちゃんの提案で、近くの喫茶店に集まってお昼ご飯を食べようということになった。
今日はみんな外出だから、ホームのお昼ご飯止めちゃったもんね。
メッセージに添付された喫茶店の地図を頼りに歩いていくと、住宅街の半地下に辿り着いた。
喫茶店のドアを押し開けると、それに気づいた店員さんが店の奥から「いらっしゃいませー」と出迎えに来る。
落ち着いた声と一緒に、ひんやりとした空気が頬に触れる。 さっきまでいた体育館の重たい空気とは、まるで別の世界みたいだった。
「お、理世くん!こっちだ!」
奥の席から手を振っているのは清次郎くんだ。向かいには心乃ちゃんもいる。
「おつかれー」
席に着くと、心乃ちゃんがお冷やを飲んだまま軽く手を上げた。
「……疲れた」
そう返しながら、どっと力が抜ける。 椅子に座っただけなのに、身体がふわっと軽くなった気がした。
カイジくんの高校は少し遠いみたいで、まだ着いていない。
「みんなの制服姿、なんか新鮮」
「それな」
平日の昼前という時間帯もあってか、お客さんは誰もいないみたい。
店内にはゆったりとしたクラシック音楽が流れ、インテリアは落ち着いた雰囲気で統一されていて、なんだか心地良い空間だ。
勉強も真面目にしていたのはカイジくんだけで、私は解答を見ながら空欄を埋めていき、心乃ちゃんは飽きたのかピアノを弾いているし、清次郎くんは漫画をパラパラとめくりながら「ははっ」と笑い声を上げていた。
そんなある日、週二の診察でお医者さんからとあることを言われた。
「小野村さん、もし良かったら、明日から学校に行ってみませんか?」
「え?」
思わず間の抜けた声が出た。
「……学校、ですか?」
聞き返すと、お医者さんは穏やかに頷いた。
「はい。毎日でなくても構いません。週に一回でも、短い時間でも良いので」
「……」
頭の中が、一瞬で真っ白になる。
学校。
その言葉だけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられる気がした。
「もちろん、無理にとは言いませんよ」
お医者さんは私の表情を見て、少しだけ声のトーンを落とす。
「ただ、許可証も取りやすくなりますし、外に出る練習としては良い機会かもしれません」
外に出る、練習。
診察室を出た後も、まだ少しだけぼんやりしていた。
そういえば、ホームに来てから一度も電話していないことに気づき、ロビーの壁に寄り掛かりながらスマホでお母さんに電話を掛けると、すぐに出てくれた。
『もしもし、理世。どうしたの?』
「あ、お母さん……元気?」
『元気よ。理世は?調子どう?』
スマホ越しの声は、思っていたよりもずっと優しくて、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「……うん、まぁまぁ」
少しだけ間を空けて答えると、お母さんは「そっか」と安心したように息を吐いた。
ごめんね、とかホームのこととか、話したいことが沢山あったのに、喉に突っかかって出てきてくれない。
「うん、じゃあね」
通話を切ったあと、しばらくそのまま動けなかった。
スマホを握ったまま、天井を見上げる。
学校には行きたくないけど、外には出たい。
自分でも我儘だなぁと笑ってしまう。
「理世、こんなとこで何してるん?」
聞き慣れた声に、びくっと肩が揺れる。
振り返ると、いつものラフな格好のまま、椅子に座ってこちらを見ていた。
「心乃ちゃん」
「なんぞ?」
「さっき診察で学校行ってみないかって言われたんだけど……」
「うむ」
下校途中に買ってきてくれたらしい団子を貰ったので、もぐもぐと口に運ぶ。
みたらし団子で美味しい。
「で、どうするん?」
もぐもぐと団子を頬張りながら、心乃ちゃんは気軽に聞いてくる。
その軽さが、ちょっと羨ましい。
「……分かんない」
正直にそう答えると、心乃ちゃんは「行かなくても良いんじゃない?」とあっさり頷いた。
「無理して行っても、余計に悪化するだけ」
「そうなのかな……?」
不安げに聞き返すと、心乃ちゃんは串をくるくる回しながら、少しだけ視線を上げた。
「うーん……人による、かな」
さっきまでの即答とは違って、少しだけ考えるような口調だった。
「無理して行って、しんどくなるタイプもいる。逆に、ちょっと無理してでも行った方が楽になる人もいるよね。ちなみにウチは前者」
彼女は軽い口調で串をゴミ箱に突っ込むと、自販機でジュースを買った。
「理世の学校はいつ終業式?終業式だけ行って、さっさと外出許可証を貰おう」
なるほど、修了式だけ行くという手もあるのか。
「……それなら、まだマシかも」
という訳で終業式の日、ガタガタ震える足をなんとか動かし、学校の門をくぐる。
終業式では全校生徒が体育祭に集まるので、久々に見るクラスメイトがちらほらいた。
壇上に上がる校長先生の話を、私は入り口付近で膝を抱えながら聞いていた。
話の内容なんて、ほとんど頭に入ってこない。
ただ、ざわざわとした人の気配と、体育館特有のむわっとした空気だけが、やけに重く感じる。
(……無理かも)
喉の奥がきゅっと狭くなる。
少しでも気を抜いたら、このまま引き返してしまいそうだった。
(あと、ちょっと……)
自分に言い聞かせるように、ぎゅっと膝を抱えた。
壇上から拍手が起こる。
びくっと肩が跳ねて、思わず顔を上げた。
「……」
周りを見渡す。
知らない顔と、少しだけ見覚えのある顔。
誰も、私のことなんて見ていない。
当たり前だけど、それが少しだけ救いだった。
(……あれ)
ふと、視線の端に見覚えのある後ろ姿が映る。
同じクラスの子だ。
名前は――思い出せないけど、確か前の席の子。
その子は、隣の友達と小さく笑い合っていた。
普通の、いつもの光景。
私がいなかった時間なんて、なかったみたいに。
(……そっか)
胸の奥に、少しだけチクっとした感覚が走る。
でも同時に――
(私がいなくても、回るんだ)
どこか、ほっとした自分もいた。
また拍手が起こる。
終業式は、思っていたよりもあっけなく進んでいく。
「――以上で終業式を終わります」
その言葉が聞こえた瞬間、肩の力が一気に抜けた。
本当に、終わった。
気づけば、呼吸が少しだけ楽になっていた。
周りの生徒たちが立ち上がり、ざわざわと動き出す。
その流れに逆らうように、私はそっと立ち上がった。
(……帰ろ)
それ以上いる理由も、勇気もなかった。
担任の先生に挨拶を言ってから帰ろうとした時、先生に呼び止められた。
「小野村、夏休みに林間があるんだが―――」
「……すみません、無理です」
先生はそれ以上何も言わず、「そうか、気をつけて帰れよ」とだけ言って、他の生徒の方へ向かって行く。
外の空気は、思っていたよりもずっと軽かった。
ポケットの中のスマホが、微かに震える。
取り出してみると、グループメッセージからだった。
―――どや、みんな生きてる?
―――お疲れ様でした。こっちは少しかかりそうです
―――オレは丁度終わったところだ!
私もポチポチと文字を打ち込んだ。
―――こっちも終わった〜!
そう返すと、すぐに既読がついた。
心乃ちゃんの提案で、近くの喫茶店に集まってお昼ご飯を食べようということになった。
今日はみんな外出だから、ホームのお昼ご飯止めちゃったもんね。
メッセージに添付された喫茶店の地図を頼りに歩いていくと、住宅街の半地下に辿り着いた。
喫茶店のドアを押し開けると、それに気づいた店員さんが店の奥から「いらっしゃいませー」と出迎えに来る。
落ち着いた声と一緒に、ひんやりとした空気が頬に触れる。 さっきまでいた体育館の重たい空気とは、まるで別の世界みたいだった。
「お、理世くん!こっちだ!」
奥の席から手を振っているのは清次郎くんだ。向かいには心乃ちゃんもいる。
「おつかれー」
席に着くと、心乃ちゃんがお冷やを飲んだまま軽く手を上げた。
「……疲れた」
そう返しながら、どっと力が抜ける。 椅子に座っただけなのに、身体がふわっと軽くなった気がした。
カイジくんの高校は少し遠いみたいで、まだ着いていない。
「みんなの制服姿、なんか新鮮」
「それな」
平日の昼前という時間帯もあってか、お客さんは誰もいないみたい。
店内にはゆったりとしたクラシック音楽が流れ、インテリアは落ち着いた雰囲気で統一されていて、なんだか心地良い空間だ。



