『バンコク・オーバーラン~偽装のハイウェイ~」タイ・トラベルミステリー・シリーズ



 ラッカバン工業団地の夜は、重油と鉄粉の匂いが混じった、鼻を衝く湿った夜気に包まれていた。 

 スワンナプーム国際空港まで直線で約七キロ。

 三分に一度、轟音を腹に抱えた機体が低空を横切り、夜空を引き裂いていく。

 その爆音が遠ざかるたびに、数分の静寂が戻ってくる。

 まるで息を殺した獣たちが暗闇に潜んでいるような不気味な静けさが周囲を包む。

 坂本は、ラッカバンのD区画に停めたGT-Rのステアリングを握ったまま、倉庫の正面を見つめていた。
 
 錆びた門扉に掛けられた看板に、日本語と英語が並んでいる。

「ジャパン・オートロジスティクス株式会社 バンコク営業所」

 日系企業の体裁を整えた一見ありふれた物流倉庫だ。

 敷地内には40フィートのコンテナが要塞のように積み上げられている。

 守衛所の若い制服を着た門番が、携帯をいじりながら鼻歌を歌っている。

 坂本のGT-Rに気づき、慌てて門扉を開けに走ってきた。

 助手席のブンロートがジャケットの内ポケットから無造作に札束を取り出し、坂本に差し出した。

 タイの新国王、ラマ10世の尊顔が刷られたがタイバーツの新券。 

 丁寧に束ねられた、生々しい報酬だ。

「ボスからの報酬だ、取っとけよ」

 坂本は指先で厚みを確認すると、無言で束ごとジャケットの内ポケットへ収めた。

「今夜が"荷下ろし”の日だ。ボスも来る、さぁ降りろ」

 ブンロートが助手席から降りながら、振り返らずに言った。

 監視カメラが五台。

 出入り口は正面シャッターと左側面の非常口の二箇所。

 頭上に据え付けられた10トン天井クレーン、屋根へと突き出た排気ダクトが四箇所。
 
 脱出経路と、もう一つの「使い道」が、既に頭の中にある。
 
 倉庫の内部は、外観からは想像のつかない広大な空間だった。 

 天井から吊り下げられたLEDの作業灯が、床全体を白昼のように照らしている。

 その光の下に、整然と芸術品のような艶やかな車体が並んでいた。

 日本でしか生まれ得ない車種たちだ。

 現代の技術が結晶した限定モデル、バブル期に職人が魂を込めて作り上げた高級セダン、どれも日本の威厳を纏った最高傑作だ。

 いずれも日本のオーナーが生涯をかけて手に入れたのか、あるいは代々受け継いできた一台だ。

 それが今、バンコクの夜の倉庫で、冷たいLEDの光の下に晒されている。

 その一台に、坂本の視線が止まった。

 スターライトブラックのレクサスLC500。

 オーナーが特注で取り寄せた純正スピーカーのパネルステッカーが、ドアの内張りに貼られたままだ。

(……東京・大田区で消えた個体だ)

 坂本は在タイ日本大使館の小林からの資料で照合済みの車体だった。

 オーナーは六十二歳の元自動車メーカー技術者。

 三十五年間、部品の設計に携わった男が、退職金の大半を注ぎ込んで手に入れた、生涯唯一の愛車だった。

 坂本は表情を変えず、静かに舌打ちをした。

「よくここまでの揃えられたもんだな」

「ふふ、盗むのは日本の高級車が一番簡単なのさ、それに…」

 先を歩くブンロートを追い、倉庫の奥の仕切り壁で区切られた作業場へ入った。

「それに…なんだ?」

 坂本が問いかけた時だった。

 空調が利いた中央に、先ほどまでデッドヒートを繰り広げた、漆黒の品川ナンバーのGT-Rが目に飛び込んできた。

 まるで麻酔をかけられ、手術を待つかのように、ボンネットを開けられたエンジンルームを四人の男が囲んでいる。

 作業場の隅のエアコンプレッサーが低く唸り、ホースの先ではラチェットが「カチ、カチ」と乾いた音を立てる。

 男たちはほとんど言葉を交わさず、黙々とボルトを緩め、配線や金具を外していく。

 だが、その手が伸びているのはエンジン本体ではない。

 エンジンブロックの側面、補機類の裏側に設けられた「空洞」だ。

 作業員の一人が、精密ドライバーで長方形の隔壁パネルの四隅を外した。

 パネルが抜けると、内側に黒いウレタンフォームが現れる。

 フォームを取り除くと、真空パックされた半透明のブロックが整然と並んでいた。

 ブルーがかった白。まるで圧縮した海水を固めたような色だ。

 黒いマスクをした男がブロックを一つずつ取り出し、電子スケールに乗せていく。

 数値を読み上げ、もう一人がタブレットに記録する。無駄のない、慣れた手つきだ。

「ブルー・シルク……あれだよ」

 ブンロートが人差し指を上下に揺らして、ニヤリと坂本を見た。

 坂本は初めて実物を目にした。

 一ブロック約五百グラム。

 純度九十八パーセントを超える、日本で生成された新世代の合成麻薬だ。

 タイの闇市場に流通する一般的な合成薬物は一グラムあたり数百バーツにすぎない。

 しかし「ブルー・シルク」は違う。

 その異常な純度と持続性から、バンコクのハイエンド市場ではコカイン上位品を凌ぐ一グラムあたり一万バーツはする―日本円で約五万円の値がつく。

 坂本は頭の中で、無感情に数字を積み上げた。

 一ブロック五百グラム。一台あたりエンジンとサスペンション合わせて平均四キログラム。

 今夜この倉庫にある十二台。

 四十八キログラム。末端総額にして、約四億八千万バーツ――日本円で約二十億円に及ぶ。

 一夜の「荷下ろし」で、二十四億。

 車体の構造を完全に把握した上で、空洞の位置を選んでいる。

 強度部材を避け、走行性能に影響を与えず、通関検査で見つからない場所を、緻密に計算して選んでいた。

 坂本はウェアラブルカメラを作業場へ向けた。 

(これは素人の仕事じゃない)

 坂本はそう確信した。

 背後に、自動車設計に精通した人間がいる。

 その確信が、次の問いに繋がった。

(ブルー・シルクそのものは、どこで作られている? まさか日本なのか?)

 純度九十八パーセントを超える合成麻薬は、高度な化学設備なしには製造できない。

 過去に摘発されたタイ国内の麻薬生成の闇ラボの水準を、明らかに超えている。

 坂本はその問いを、胸の内に深く沈めた。

 その時、背後から静かな低い声が坂本の思考を遮った……。